ミミズが干からびても,アスファルトを呪うべきではない
http://d.hatena.ne.jp/chigui/20120127/1327659538
赤亀さんのエントリにコメント書いてたら勝手に長くなってしまったので,トラックバックにします.オモシロイ読み方&力作エントリですね.『土の文明史』は読んでないですが……
そうなんですよ.土は忘れられがちな「資源」なのですが,歴史と文明の履歴を保持しているわけです.しかも,物理的な営力だけじゃなくて,化学的な作用,生物的な作用を受けているところが興味深いのです.
環境は聖域じゃない
そういう土壌,というか農業を「市場原理で測ってはならない」は,現時点ではまあその通りかな,と思いますが,これを「農業を市場原理の聖域にするべき」なのか「市場原理は生態系サービスをビルドインすべき」なのかでは,僕は後者に比重を置きたいですね.市場に不備があるから,問題が起きるっていうような.
理由はふたつ.防御的な理由としては,じゃあ市場から農業を切り離せるのか,ということ.地産地消の最終形態(?)まで行けば可能なのかもしれないですが,たぶん貧困問題とか「豊かさ」*1の問題と大衝突するでしょう.
攻撃的な理由としては,確かに土壌や水,大気などのサービスをお金の価値に換算するのは難しいですが,「それらを適切に生産・消費ためのシステムの道具として市場を使う」というのは十分にイメージできるからです.なんかCDM*2では排出権ほぼゼロになったらしくて失敗気味らしいですけど,ようは,その方向性で進んだときのイメージがきちんとできるか?ってところが鍵だと思ってます.
少なくとも僕は「環境を聖域にしたとき」の成功イメージがどうしても湧きません.「日本がペリーが来た後も鎖国を続けていたら,アメリカに戦争で勝てるようになりました!やったね!」というくらいイメージが湧きません.
「技術の敗北」か,それとも
モンゴメリの言う「科学技術が生活を改善すると信じるのは前世紀的発想」*3というのも,僕も「前世紀」くらいまではそのように考えていましたが,バックミンスター・フラーの著書を読んでからはだいぶ変わりました.
「宇宙船地球号」のコトバを使い出した人物,なんですけども,彼に言わせれば
「宇宙船地球号には、エネルギーの欠乏も危機も存在しない。人類の無知が存在するだけである」
- 作者: バックミンスターフラー,Richard Buckminster Fuller,芹沢高志
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
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「資源が生成されるよりも速く消費されてしまうという問題を技術では決して解決できない」というのは,なにかそうなる根拠があるのではなく,あくまで歴史がそう物語っているというのであれば,今後そういった技術が登場しないとは言えないんじゃないでしょうか?
また,過去の事例を参照するにしても,アスワンハイダムはエジプト政府の利権と冷戦構造の歪みが建設計画にも反映されており,カール・テルツァーギなどの優秀な(というか,天才的な)技術者も途中で技術顧問から外されていたと聞きます.
3.11の原発の問題でも,より安全な技術や方策は以前からあったわけですし(そうするべきだったか,という議論は置いといて),「技術の敗北」というよりは,人類は常に技術のコントロールに失敗してきた,というべきなんじゃないでしょうか.だから,それを技術そのものの問題だ,と断じてしまうことは,本来の原因を覆い隠してしまうのであって,そっちのほうが大問題です.
ポル・ポト水路が「水路」という技術の失敗だと思う人はいないでしょうし,9.11を「飛行機」という技術の失敗だと思う人もいないでしょう.むしろ,「資源が生成されるよりも速く消費されてしまう」ということを回避できる技術こそが,今望まれているイノベーションではないかと.
もう少し感覚ベースで
ご存知かもですが,真夏の夜にミミズが干からびているのは,土の中よりも地表のほうが涼しいからですね.朝になると地中に戻れないと気づいたときの心境を想像すると怖ろしいです.
一方で,それは自然な光景とも言えます.やっぱり土の地面の上でも干からびているミミズはいますし,彼らが死んでいる光景が見られない場所よりは幾分「自然」です.もちろん,アスファルトの存在がミミズの個体数を減少させている,というのは十分あり得る話ですが.
ミミズの死骸を見たときの異様さというものは,自然なものではなく,むしろ極めて人間的な,固有の文脈に基づくものでしょう.干からびて死んだミミズを見て,「これが人間と自然の軋轢なのだ」と感じるような感覚を,普遍性の高いものと感じる人は多いのですが,自然を視る感覚にこそ多様性があります.
イランの知り合いは「美しい」湿地を見て「ジメジメして嫌だね」と言いましたし,カンボジアの留学生に「美しい」里山を紹介すると「日本にはなんでもあるのに,なんで?」と訊かれましたし,アメリカから来た人に「美しい」棚田を見せると「なんて非効率的なんだ!」と叫びました.
異様だと感じる感覚は,たぶんいろいろな思考の「起点」であって,自分のオリジナリティが反映された結果です.それが自分の思想に方向性を与えているんだなあ,と最近は考えていて,でもそれが現実へのフィードバックに対する「正しい」答えを示すものではない,とも自戒しています.