レヴィ=ストロース(道の手帖)

レヴィ=ストロース 入門のために 神話の彼方へ」読了。
むしろ、その時代の思想の空気なんかは僕にとって神話のようなもので。

レヴィ=ストロース---入門のために 神話の彼方へ (KAWADE道の手帖)

レヴィ=ストロース---入門のために 神話の彼方へ (KAWADE道の手帖)

 マクルーハンは、芸術が新しいメディアに対するカウンターとして機能している、というようなことを言っていた。レヴィ=ストロースもそういう意味で芸術的な人間であったようだ。

話し言葉→書き言葉、に限らず、貨幣の登場、ラジオの登場、テレビの登場、インターネットの登場、そうしたテクノロジーが新しい環境を生みだすとき、移行の軋轢が人間存在を脅かすことがある。マクルーハンはそれを「伝染病」と呼んでいた。僕は「伝染病」っていう感じでは捉えていないんだけど。ともかく、その伝染病から社会を守るために、芸術が機能しているのだと。

 本書はレヴィ=ストロースの入門書というかたちで、複数の著者がレヴィ=ストロースについて語る、という体裁をとっているんだけど、その中で安藤礼二氏は「構造主義者や文化人類学者というよりは、なによりも芸術論の人であり、同時に文芸批評に後戻りのできない一歩を踏み出した人」と評していた。

 確かに本書を読むと、マックス・エルンストなどのシュルレアリスムからなんらかの解釈をすくい上げていたりしたらしくて、なるほどねーと思った。僕もシュルレアリスムはわりと好きで、去年のシュルレアリスム展は胸熱な展開だったんだけども、まさかここでつながってくるとは。こういうのって、自分でつなげようとしているというか、自然に集まってくるというような感覚に近い。

 たぶんキーとなっているのが、最初に引用したマクルーハンの言っていたこと、つまり、移行の軋轢に対するカウンターなんじゃないかな。シュルレアリスムの全盛期だと、帝国主義の流れを汲んで、世界大戦。こういう「大きなもの」に対するカウンターとして機能するべきだ、しなければならない、という意志があるんじゃないか、という。まあマルクス主義に触れてればアタリマエと言えばそうなんだけど。

 レヴィ=ストロースが持つ、人々とその背後にあるものを視る視座というのも、そういう背景があってこそ、まあどっちが先かは卵か鶏かだけど、なんじゃないかな。

 現代の社会でも「大きなもの」は依然として存在するわけで、それをなんとかしないといけない、というのは共通の課題なんだろうな、と思う。でも、そういう問題に対して、単に「大きなもの」憎しというか、敵だと考えてしまう姿勢はとてもよろしくない。なんでかと言えば……とても共感した、小田亮氏のコトバを引用する。

非真性な社会、偽物の社会を我々はもう排除できない。大規模なシステムに包括されて生きているわけですから。そのときにそういった偽物の社会を排除して本物の共同体だけで小さな社会をつくるという、そういう志向も歴史の中には出てきたわけですけれども、それは必ず失敗するわけですよね。境界を区切って防衛するというのではなく、いまの大きな非真正な社会に包摂されて生きている中で、真性な社会を維持できるし、現に維持しているのだというのがレヴィ=ストロースの考えから出される一つの帰結です。

うん、直感的にはそんな気がするし、そうであってほしいと願うんだけど、今ひとつ確信が足りないんだよね。そういうわけで、とりあえず、「悲しき熱帯」を読む準備は自分の中で整った。