百年の愚行

「百年の愚行」(Think the Earth Project)読了。
想像力とモチベーションと。

百年の愚行 ONE HUNDRED YEARS OF IDIOCY [普及版]

百年の愚行 ONE HUNDRED YEARS OF IDIOCY [普及版]

 社会に対するモチベーションの違いはどこから来るのだろうか?最近、そういうことを考えている。社会になにかしらのインパクトを与えたいと思っている人、そうでない人がいる。どちらが良い悪いということではないのだが、違いの源泉はどこにあるのだろうか?という問いだ。

 こと日本人に限って言えば、「想像力」なんじゃないか、と思う。もちろんそれだけではないのだが、たぶん、十分な想像力がないと、その辺のスタートラインに立てない。なんか社会貢献みたいな団体入って頑張っている人でも、そういうモチベーションがない人っているみたいだ。どっちかって言うと、なにかやっている実感がほしいだけの人というか、サークル感覚というか。別にそれが悪いわけじゃなくて、コミットメントの仕方にだいぶ差があって、まとめるときにはそういうものを意識しないと、「あれ?」という感じになったりする。

 想像力というのは例えばこういうことだ。「百年の愚行」に収められた写真には、人類の野蛮な行いが記録されている。それは殺戮の歴史であり、自然の輪から逸脱した結果であり、そしてこれから起こりうる問題の兆しである。そうしたものを、リアリティをもって、自身の問題として捉えることができるか、ということだ。

 出典は忘れたが、岡本太郎は確かこのように言っていた。「幸せ」という言葉が嫌いだ。幸せというのは鈍いから言える。自分の仕事がうまくいって、家族がみんな健康に恵まれて、幸せだなと思っていても、ひとつ隣の家では血を流すような苦しみを味わっているかもしれない。それでも、あなたは幸福だと言うのか?それはとんでもないエゴイストなのではないか?というような。

 ここから少し脱線するとキリスト教的な思考になる気がするけど、そうではなく、社会に対するモチベーションの有無というのが、わりとそういう想像力に起因しているよね。その上で、社会的な写真を見るうえでの想像力を喚起する問いっていうのがいくつかあるように思う。方法論としては、

1,なぜ写真のような状況が起きているのだろうか?
2,なぜ撮影者はこの写真を撮ったのだろうか?
3,写真の状況は自分とどんな関係があるのだろうか?

 こんなところだろうか?絵画とかの分野でよくある「感じたままに感じれば良い」というようなスタンスにはあまり共感できなくって、社会や芸術などの文脈に沿わない突然変異的なものと対峙するのであればそれでも良いのかもしれないが、芸術にせよ社会的な主張を持つ写真にせよ、既存の文脈を踏襲していることがほとんどのような。それを、「感じたままに感じれば良い」と言って突き放すのはどうも違うんじゃないか。やっぱり理解の補助線としてのなんらかの型があるほうが、対象を意味のあるものとして理解していける。
 もちろん、「感じたままに感じれば良い」のほうが、上位概念というか、尊重されるべきものだけど、型を用意したからといって、そういうオリジナルな感覚が閉ざされてしまうというほど、人間の可能性を信じていないわけではない、というところ。型を与えると思考の幅が狭まる、という人もいるけど、それだったら、型を与えることで型の外に出なければ、と考える人もいるはずだ。
 想像力というのは、なにもしなくても湧いてくるものだ、と考えるのは少し早とちりのような気がするのである。