「あなたでなければダメだ」って、どんな人になら言える?

1Q84-6」(村上春樹)読了。
リトル・ピープルを退けるものは。

1Q84 BOOK3〈10月‐12月〉後編 (新潮文庫)

1Q84 BOOK3〈10月‐12月〉後編 (新潮文庫)

 1ヶ月かけて読み終わった。最初から最後までとても理解しやすい。個人的に、わかりやすさを指向する池上彰的スタイル、つまりみんなに伝えたいことがあるからエンターテインメントというかたちを取る、というスタンスには強く共感する。
 リトル・ピープルがなにに見えるかっていうのは人によって違うと思うんだけど、僕には例えば2ちゃんねるまとめサイトに見えた。
 友人にすごく「良い奴」がいる。頭もそれなりにいいし、「まっすぐな男子」という形容がふさわしい。しかしいつ頃からか、彼は2ちゃんねる的な思考をするようになった。もちろん、まとめサイトを見ているからだろう。「ただしイケメンに限る」「前の世代が悪い」「マスコミは嘘ばかり語る」。こうしたミームが、彼の発言に巧妙に入り込んでいった。
 それを「悪いこと」と決めつけるわけにはいかない。彼は自らそれに共感したんだし、そういう考え方を是としたんだから。でも僕には、2ちゃんねる的思考パターンが彼を蝕んでいるようにしか見えなかったし、「俺が悪いんじゃない」という考えを強化しているようにしか見えなかった。
 それでじゃあ、2ちゃんまとめサイトが「悪い」のかって、そんなのは良いも悪いもなくて、ただ単にそういう「機能」を持っているだけなんだよね。だけど例えば、「俺らのせいじゃなくて団塊の世代が悪いんだ」という書き込みを見て、やっぱりそうだ、と思って、深い反芻もなしに、いつしか自分の考えとして結実していくその過程こそがまさに、リトル・ピープルが「空気さなぎ」をつくっている過程なんだろう。
 それは「ほんとうに」自分で考えたのかな?という。こういうプロセスが例えば2ちゃんねるまとめサイトでもそうだし、マスメディアだってそうだし、大学生のサークルや、ある種の宗教でもそうだ、ということ。
 今までは「大きな物語」を共有するために、ビッグ・ブラザーをみんながフォローするというかたちをとっていたけど、社会の成熟が進むと、ビッグ・ブラザー的な仕組みが機能しづらくなって、ミームの共有が目につきにくいところで行われるようになった。そういう部分の力が以前と比較して大きくなった、ということなんだろうな。
 この辺がだいたいBOOK2まででわかることで、BOOK3はたいがい蛇足だった。意味のあるストーリーがBOOK2までで終わっちゃってるんだから。バッドエンド(かどうか?)を裏返してハッピーエンドにしただけだからなあ。ただ、BOOK3になんらかの意味を見出すとすれば、「リトル・ピープルからガイをうけないでいるにはリトル・ピープルのもたないものをみつけなくてはならない」という言葉の言うところの、「リトル・ピープルのもたないもの」=「天吾と青豆の関係」ということで、つまり、具体的な個人と個人の関係を大切にしましょう、それが唯一の有効な解です、というメッセージは一応くみ取れる。2ちゃんねるまとめサイトにあるのは、具体的な個人じゃなくて、例えばふだん口に出せないようなルサンチマンの吐き出しであって、それがあたかも一人の人間として語りかけてきているだけなんだ、と。
 でもなー、リトル・ピープルに対抗するのに必要なのは、天吾と青豆の関係じゃないような気がするんだよね。だってさあ、それじゃあ「ほんとうに大切な人」をみんなが死ぬ気で見つけないといけないんだろうか?香山リカっぽい意見を言わせてもらうと、そんなの大変すぎじゃん。高速道路でピストルを口につっこんだり、何ヶ月もマンションの一室に閉じこもったり、教団の幹部をマッサージに見せかけて暗殺するような大変なことして「愛するただひとりの人」まで辿りつかないといけないの?そのモデルはみんなにとって正しいと言える?特別な人に向けてかいてるんじゃなくて、ふつうの人にむけて書いてるんだよね?
 むしろ、リトル・ピープルにそそのかされてしまう人こそが、「愛するただひとりの人」という幻想を抱いていそうな気がする。個人的な意見を言えば、「愛するひとりの人」というのは、別にその人じゃないといけないというわけじゃなかったけど、ある種の経験を共有して、同じ時を過ごして、結果的に「愛するひとりの人」に「なっていった」というのが、たぶんふつうの人にとって受け入れる意味のある結論だと思う。そしてそれが、リトル・ピープルを退ける唯一の解だと思う。
 なんで?って言われても難しいな。そんなに他の人のことなんかわかんないよ、っていうところが根底にあるかもしれない。「あなたでなければダメだ」の基盤が、その人の属性情報じゃなくて、経験の共有にある。
 もし僕が、リトル・ピープルをいかに退けるか、という問題意識で物語を構築するなら、青豆は天吾に固執するべきじゃなくて、その辺のふつうの男と恋に落ちて、「天吾」という幻想に終止符を打つ、というなんにも面白くない物語になったはずで。逆にBOOK3の解決策は、そうかなあ?という違和感が残ったとも言えるかも。もしかしたら、「リトル・ピープルを退けるもの」に普遍的な解はなくて、人それぞれということになるのかもしれない。青豆のような人はあれで良かったけど、僕には向かないのかもしれない。