心をよせるなど、そんなしっかりしたことではない。

「木」(幸田文)読了。
木をまっすぐに見つめるということ。

木 (新潮文庫)

木 (新潮文庫)

 以前、幸田文の「崩れ」を読んだ。「感動の伝達役」としての著者から受け取ったのは、崩壊地のフラジャイルな感覚。しかし、崩れが自然の不安定性を表すなら、植物が表すのは「再生と安定」。そういう意味で、「崩れ」と本書「木」は2冊でひとつかもしれない。
崩れ (講談社文庫)

崩れ (講談社文庫)

 崩れは、自然が本来あるべきかたちに還ろうとしているところだし、木はあるべきかたちに反抗するように生育している。キーワードとして書けば、崩れはエントロピーが小さくなるほうへ進んでいるし、木の生育はエントロピーが大きくなるほうへ進んでいる。
 それにしてもこの著者、またしても人に負われて自然界のなかへ入り込んでいく。崩壊地を訪ねるときもびっくりしたが、今回は縄文杉を見るために人に負われていく。これがまた、けっして図々しく感じないのは文章力ゆえではなく、きっと「もうこの人ならしょうがない」と思わせる「なにか」が著者にあるのだろう。

どういう切掛けから、草木に心をよせるようになったのか、ときかれた。心をよせるなど、そんなしっかりしたことではない。毎日のくらしに織り込まれて見聞きする草木のことで、ただちっとばかり気持がうるむという、そんな程度の思いなのである。

「そんな程度」の思いで、足腰が弱くなってから縄文杉や倒木更新を見に行こうというのだから、恐れ入ってしまう。しかし、これくらいの感覚で語る興味というのは、ある意味とても自然体なものと感じる。植物愛好家と名乗るわけでもなく、好きになった理由を得意げに語るでもなく、「ただちっとばかり気持がうるむ」。これこそ興味の持ち方として理想的なあり方ではないか。自ら視野を狭めることもなく、自らがほんとうに興味のあるところに自在に到達できる程度のフットワークの軽さ。究極のフットワークの軽さは、他人の足まで動かしてしまうということだろうか。

 そしてやはり、自然の描写。

それはまだひょろひょろと細く若い木を何本も、満員の形でのせている、まごうかたなき倒木だった。肌こそすっかり苔におおわれているが、土からちょうど私の立った足丈ほどなかさが、もと倒れた木の幹の丸さをみせており、その太さは先に行くに従って細っているし、すぐそばにそれのものと思われる根珠も残って、証ししていた。じわじわと、無惨だなあ、と思わされた。死の変相を語る、かつての木の姿である。そして、あわれもなにも持たない、生の姿だった。(中略)なにか目を伏せて避けていたい思いもあるし、かといって逃げたくもない。

このまま無限に引用してしまいかねないので、ここら辺で止めておこう。以前、シェル・コレクターを読んだときは、こう書いた。

シェル・コレクター (新潮クレスト・ブックス)

シェル・コレクター (新潮クレスト・ブックス)

自然はもともと、怖ろしいものだ。それを目の当たりにして、実感して、「それでも自然は美しい」と言える機会は、ほんとうに少ない。

この感覚である。自然が支配する空間とそうでない空間の違いは、人間が見たくないものが表に表れているか否かの違いである。人間が完全にコントロールしている空間には死がないし、同時に生もない。それらは、人間が普段から意識し続けるには荷が重すぎる。しかし、山の中へ行けば、木に会いに行けば、それと対峙しなければならない。幸田文の言葉を借りれば、その「目を伏せて避けていたい思い」を踏まえた上で、見つめることができるのかどうか、ということだ。