伴読部第6回 『メモリー・ウォール』

 思いのほか長く続き、という言い方も失礼かもしれないが、2巡目が終わろうとしている伴読部。今回は僕の指定回だったので、久しぶりに小説を、と思い、去年読んだ「シェル・コレクター」がオオアタリだったアンソニー・ドーアの新作を選んだ。本屋大賞の翻訳部門小説でも3位になったとかで、まあ「なんとか大賞」なるものをあまり信用してはいないものの、ドーア知名度も上がりつつあるだろうか。ていうか、本屋大賞ってもともとは「書店員のオススメ」みたいな、個々人の嗜好が強く出るものを想定しているんじゃないのか?それを投票で決めたら平準化されて「一般的な」本がピックアップされてくるだけのような。コンセプトとしてどうなんだろう?○○書店□□店の本屋大賞くらいが味のある企画だと思うけど、って話が逸れまくりでした。

メモリー・ウォール (新潮クレスト・ブックス)

メモリー・ウォール (新潮クレスト・ブックス)

アンソニー・ドーアとは何者か?

 池澤夏樹の立ち位置にかなり近いのかな。ドーア池澤夏樹に共通しているのは、自然科学的なバックグラウンドを持っていること。なぜドーアがそういうバックグラウンドを持っているかは調べないとわからなそうだけど、一般向け科学書の書評も書いているとか。池澤夏樹は大学で物理学やってたらしいので、一説によると「理系の村上春樹」(僕はそう思わないんだけども)だとか。その辺の雰囲気は「スティル・ライフ」とか読んでいただければわかると思う。

スティル・ライフ (中公文庫)

スティル・ライフ (中公文庫)

 「メモリー・ウォール」では控えめだったけれども、ドーアの自然描写は「知っている者にしか書けない自然の鋭さ」を表現できる。前作の「シェル・コレクター」では圧倒されたことを今でも覚えている。
シェル・コレクター (新潮クレスト・ブックス)

シェル・コレクター (新潮クレスト・ブックス)

 もうひとつつけ加えるなら、彼は大学の創作学科出身らしい。あまりくわしいことは知らないけど、日本なら文学部を出て小説家になるようなものか?かなり珍しいんじゃ?まあ要するに、緻密に計算された作品であることは確かなんだと思う。読後の感想としては、「なぜこの物語が描かれたのか?」「なぜこの題材を選んだのか?」というのがよくわかるんだよね。そういう意味でも、理系的なんじゃないかと。

セピア色のウォール

 コンピュータ分野でメモリウォール問題といえば、メモリが制約条件となって性能が頭打ちになることだ。例えばパソコンの性能を決めるのはプロセッサとメモリで、プロセッサが計算するスピードを決めて、メモリが同時に処理できる量を決める。しかし、ひところよりプロセッサの性能は飛躍的に高くなったのに対し、メモリの性能向上はそれほどでもない。そうすると、パソコン全体の性能の足を引っ張るのはメモリである。あたかもそこにメモリの「壁」があるように性能を規定してしまう。これが、メモリウォール問題。
 思えば、人も同じかもしれない。記憶が人の思考を限定している。「ピザって10回言って」「ここは?」「ひざ」「ヒジでしたー」というやり取りからわかるように、人間はこれまでの記憶と経験に、確実に引きづられる。例が悪いかもしれない。ともあれ、そういう過去を参考にして考える能力が高いからこそ、人類がここまで繁栄してこれたのだ、というのも生物学的にたぶん正しい。
 その一方で、記憶が僕らを僕らに繋ぎ止めているのだ、という感覚もたぶん多くの人に納得してもらえるだろう。ニーチェを持ち出せばいいのか、イーガンを持ち出せばいいのかよくわからないが、思考が極限まで自由になってしまったら、どんな経験でも、どんな思考パターンでも再現可能だろう。でも、そうはならない。記憶がそれを押し留めているから。

順列都市〈上〉 (ハヤカワ文庫SF)

順列都市〈上〉 (ハヤカワ文庫SF)

 表題作「メモリー・ウォール」は「アメリカ文芸誌マクスウィーニーズの、『世界のどこかへ出かけていって、15年後(2024年)のその地を舞台にした小説を書いてほしい』という依頼」から生まれたのだという。わりと謎な依頼だが。
 人の記憶は映像メディアによって劣化しないかたちで保管できるようになり、認知症の老婆は、その技術に頼ることで、記憶の喪失を遅らせる。興味深かったのは、喪失の悲しみを前面に出して描いていないところだ。もちろん、記憶が失われることの悲しみは作中に充満しているが、それはあえて述べるようなことではない、というようなスタンスが貫かれているように思う。むしろ、記憶に対する無条件の慈しみ、のようなものを丹念に伝えようとしている、という印象だ。
 「セピア色の記憶」というフレーズがあるが、そのセピア色をそのまま文章で表現しようとしているような感覚。記憶はどうしたって記憶で、自分が再びそのなかで役者を演じることはできないという無力感と、そのときの感情の励起があくまでも焼き直しであるという喪失感。しかしそうであればこそ、記憶が自分にとって唯一無二のもので、自分が自分という停留所から解き放たれてどこかへ流されてしまうことを、記憶が防いでいる。
 老婆の夫の趣味が化石発掘であったのも頷ける。彼は地球の記憶に固執したのだ。妻はそれをよく思わなかった。記憶に固執してどうするのだ、というスタンスはつまり、記憶を失うということを暗示している。

それは、アカシックレコード的な

 ドーアがすごいのは、地球上どこでも、どんな人でも、どんな時間でも描いてしまうところ。表題作「メモリー・ウォール」は南アフリカ・老婆と召使・2024年だし、「一一三号村」では三峡ダムに沈む村の母と子、「来世」ではナチス政権下のハンブルクで暮らす少女と、その晩年の姿。どうやらそれは、彼がアフリカやニュージーランドで働いてきたことに依るところもあるようだ。
 アカシックレコードという言葉がある。もとはインド哲学で、「人類の魂の活動の記録」であり、過去から未来までの人類の記憶がすべて揃っているのだとか。あまり深入りするとカルトっぽいところに着地してしまうので、上澄みのイメージだけを掬いあげることが許されれば、まさに「メモリー・ウォール」という短篇集がアカシックレコードのように思える。

はじめてのインド哲学 (講談社現代新書)

はじめてのインド哲学 (講談社現代新書)

 まったく反対の概念を挙げるとすれば、それは「歴史」だ。「勝者が歴史をつくる」という言葉を引くまでもなく、歴史は人類の「おおまかな流れ」を追ったものでしかない。歴史ドキュメンタリーを見て、一人の人間が「人間として」もがいている姿を見て僕らが感動するのは、根本的に大切なのは世界がどうなるかではなく個人がどうあるか、ということを信じているからで。
 ちなみに、誤解のないように言っておくと、それは自己中心的な考え方というよりは、他者のことを考えたとしても、どんなに世界がうまくいっていてもひとりの人間としてうまくいっていなければそれは意味がないんじゃないか、というような理解。物語だとそういう構造はよくあって、アンチ・ヒーローものとかの落とし所はそういうところにあるように思う。最近読んだのだと、ギャラリー・フェイクとかそうだな。
ギャラリーフェイク (Number.001) (小学館文庫)

ギャラリーフェイク (Number.001) (小学館文庫)

 だから、アカシックレコード的だ、というのは、様々な時間・土地・人を網羅しているっていうだけじゃなくて、ひとつひとつ丁寧に人類の記憶を記憶するかのような視点を持っているということ。そしてそれが、小説の果たすべきひとつの役割なんだ、ということにとても自覚的な作者ということだ。

赤亀さん:http://d.hatena.ne.jp/chigui/20120624/1340545940
なむさん:http://d.hatena.ne.jp/numberock/20120624/1340549495