河岸忘日抄
思弁的、という言い方で良いのだろうか。河岸に繋留された舟で暮らす男の物語は、物語というにはあまりにストーリーを放棄しており、そうであればこそ「掬い上げられるべきもの」がまっとうに掬い上げられている。
- 作者: 堀江敏幸
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2008/04/25
- メディア: 文庫
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「詩人」はもしかすると「明瞭にしか見えなかった」のではないか? ぼんやりとしてかたちにならないものを、不明瞭なまま見続ける力を欠いていたのではないか? 不明瞭さへの沈潜は弱さへの沈潜であり、余計なエネルギーをつとめて消費しないことだ。
明瞭なものよりも不明瞭なものに。クリアに切り取られた思考よりも、ファジイに混ざり合う感覚に。「決める」よりも「ためらう」ほうに価値を見出す、見出すべきかもしれない、そういう価値判断があり得る。心理を矛盾した状態でホールドできるのは、とても人間らしいことだ。それは、松岡正剛の「フラジャイル」に通じるものがある。
ほんとうは人類は「弱さ」をめぐる大事な神話をいろいろもっていたはずだった。それがいつのまにか忘れ去られ、すべての神話と伝説に「強さ」が君臨するようになったのだ。
ただ、もう一歩踏み込んで考えると、そうした物言いも、もしかしたらただのポジショントークなのかもしれない。つまり、「ためらう」ことに価値を見出すのは「決める」ことが苦手だからそう言っているのであって、それは、「決める」のが得意な人が「決める」ことはスバラシイことだ、と言っているのと構造的にはまったく同じなのでは?ということだ。そうではなく、能力的にどちらも可能であるが、あえて「ためらう」ことを選んでいるんだ、という姿勢を望むのは、マッチョすぎる考え方なんだろうな、とは思いつつ。
「決める」のはある種の思考放棄なんだろう。例えばバトル物漫画では「不殺」がよく出てきて、もう誰も殺さない、というふうに誓うわけなんだけど、あれは神に匹敵する強さがあるからできるんであって、ほとんどの人間にとっては、そういうわけにはいかない。そこでは、ケースバイケースというか、その度ごとに自分の信念と、自分の能力と、与えられた環境と、その他モロモロの変数を考えあわせて結論を出していかなくちゃいけない。その、考えて結論を出していくときの姿勢に、「ためらう」ことに耐えうる思考体系になっているかどうか、が反映される。
自分の考えも、そのとき配られるカードも多様だから、原則さえ決めていさえれば、すんなりと結論が出る、というわけではない。だからいつも、自分の考えを、自分の立ち位置を「こうだ!」と決めつけたがるけど、それはたぶん、ある種の妥協であって、ほんとうに大切な議論は棚上げしていることが多い。そういう原理的に答えの出ない議論を何度でも何度でも繰り返ししていくことのできる強度。それが「ためらう」ことの本質で、文学の本質なのかもしれない。
っていうふうに、考えながら書くとどうしても抽象的な言葉で埋め尽くされてしまう。その点、堀江敏幸がすごいのは、こういう話を具体的/比喩的に、しかも情景のイメージに載せて語れるところだよなー。うーん、見習いたいです。