伴読部 第7回 『エンジン・サマー』

文明崩壊の後、<しゃべる灯芯草>が語るモノローグ。
今回はなむさんのセレクト回です。

エンジン・サマー (扶桑社ミステリー)

エンジン・サマー (扶桑社ミステリー)

BGMはずっとこれでした。

最後のオチを見て、「あ」となる選曲だけども。

「自然と人工」としての小春日和

 ミクロ版「地球の長い午後」というところだろうか。文明が崩壊し、高度技術が失われた後の世界では、人類が細々と暮らしている。という設定的な意味でもそうなんだけど、どちらかと言えば、自然が人工物を覆い尽くしつつある、というような情景として。

森は強い。世界はのろいけれど強い。サービス・シティが森に呑まれてゆくにつれ、<道路>も川の流れに呑まれ、冬に壊されていく。そしてベレアも、いつか同じ運命を辿る。まわりの橋が落ち、広大な世界へつづく道は、たしかにゆっくりとではあるにしても、たしかに閉ざされてゆく。

 ただ、そういう系譜のSFと決定的に違うのは、精神部分と直球で向き合ってるところ。や、設定駆動でマクロに世界を描いていたら結果的に人間の内面を抉る作品に「なってしまう」ことあるんだ、SFには。場合によっては計画的に。でも、エンジン・サマーは違って、むしろミクロな、個人の内面を描こうとしたら、SFに「なってしまった」んじゃないか、というような、そんな印象を受ける。

地球の長い午後 (ハヤカワ文庫 SF 224)

地球の長い午後 (ハヤカワ文庫 SF 224)

物語でしかない、ということ

 これは、ネタバレもネタバレ、僕はあまり気にしないんですが、念のため、未読の方は読まないほうがいいよ、というくらい字数を稼げば、もう書いても大丈夫だろうか?
 結局、主人公<しゃべる灯芯草>はただの物語、ただの記憶が保存されたストレージでしかないわけで、主体として行動できる何者かではない。心のなかに虚無が広がっていくような感覚はしかし、そのような状況になり得ない人間としては、想像の産物で代替するよりほかにない。その感覚は例えば、『ソフィーの世界』でヨースタイン・ゴルデルの文章に閉じ込められたままのソフィーであり、あるいは『火の鳥』で不死にされて地球の行く末を見守るマサトであったり、もしかしたら「メモリー・ウォール」で記憶を失っていく老婆である。

火の鳥 2未来編 (角川文庫)

火の鳥 2未来編 (角川文庫)

ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙

ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙

記憶と無常感

記憶はどうしたって記憶で、自分が再びそのなかで役者を演じることはできないという無力感と、そのときの感情の励起があくまでも焼き直しであるという喪失感。しかしそうであればこそ、記憶が自分にとって唯一無二のもので、自分が自分という停留所から解き放たれてどこかへ流されてしまうことを、記憶が防いでいる。

と、伴読部の「メモリー・ウォール」回では書いた。確かそのときの赤亀さんとの感想のやり取りでは、記憶ってそんなにデータみたいなもんですかねぇ?もっとノスタルジーとかあるんじゃないですか?どうでしょう?みたいな話があったような気がしている。特に結論めいたものは出していないけれど、なむさんも、それを踏まえてのセレクトだろうか。
 たしかに、「メモリー・ウォール」の老婆が、両手で砂を掬うように記憶を失っていくのに対して、本作の灯芯草くんは永遠に色褪せることのない記憶の呪縛に囚われている。両極端と言えるかもしれない。前回と真逆の書き方をすれば、記憶は自分を自分に繋ぎ留めてこそいるものの、それが強固であればあるほど、どこにも行けなくなってしまうのだろう。
 無常感を描く上では「変わっていくことは止められないのだね」という「メモリー・ウォール」の書き方が正統派であるけど、それをもう1ステップ進めて「エンジン・サマー」のように「しかし、変わらないことは人間には耐えられないのだ」という確認は、当たり前ではあっても、大切な認識だと思う。中庸が望ましいという意味ではなく、両極端ではあり得ないのだ、という実感として。

なむさん:http://d.hatena.ne.jp/numberock/20120908/1347114058
赤亀さん:http://d.hatena.ne.jp/chigui/20120829/1346251501