地獄の思想

「地獄の思想」(梅原猛)読了。
地獄とは、善悪の価値判断とは関係のないものだ。

地獄の思想―日本精神の一系譜 (中公文庫)

地獄の思想―日本精神の一系譜 (中公文庫)

旅と地獄

 旅といえば地獄。というのが、最近の国内旅行のテーマだ。生と死のコントラストが美しい恐山どちらかと言えば天国に近い別府、そして、これはブログには書いていないのだが、夏の終わりには伊豆大島に行った。
 せっかくなのでここで書いておくと、大島といえばダイビングや釣りのイメージしかないが、あそこは海だけ見ていると大変もったいない。海ももちろん素晴らしいのだが、島一周道路をはずれ、「島の内側」に入るべきだ。大島はカルデラ島だから、内側には広大な砂漠が広がっているのである。僕が訪れたときは霧が一面に立ち込めており、荒涼さを脳裏に焼きつける真っ黒の溶岩砂と相まって、そこはまさに「地獄」であった。
 ゴジラの生まれ故郷も伊豆大島である。「ゴジラの皮膚」と言ってすぐに思い出せるだろうか?僕は子供の頃からウルトラマンや戦隊物よりもゴジラに強く惹かれていたのでよく思い出せるが、昏い黒色で、拒絶的にごつごつとしたその皮膚は、大島の砂漠についたとき、「ああ、こんなところから生まれたのか」と感慨深かった。

 なぜ地獄ばかり訪れているのか、というのには明確な理由がないというか、そうした景観を好むからだ、という以上のことは言えないんだけれども、それはもう少し多くの地獄を見て回れば、言語化していけるものかもしれない。

地獄とは、善悪の価値判断とはまったく別のところにあるもの

 そろそろ書評に戻ろう。そういうわけで、「地獄」というアイデアには、なかなかに興味があったりする。苦しみの場としてのみでは論じられなそうな「地獄」、天国よりも多様な側面を持つ「地獄」、生と死へに対して真摯な眼差しを向ける「地獄」。そうした魅力的な「地獄」の出自を知りたい、どのような文脈で成立しているか知りたい、というのは当然のことだ。
 梅原猛と言えば、なにやら仏教などの研究をしている人だ、というくらいしか知らなかったが、この本が処女作だという。その仏教を切り口に、「地獄」というアイデアがどうやって日本に根づいてきたかを明らかにしていく。
ふつう、地獄というのは、天国に対置されるものであって、生前にいいことをした人は天国へ、生前に悪いことをした人は地獄に、と相場が決まっている、と思いがちだが、これはオリジナルではないという。

地獄、極楽の思想が、もともと、そういうものでないとしたらどうなのか。地獄、極楽思想が、倫理的な善悪の因果物語と、ほとんど関係を持たないものであるとしたらどうか。また、地獄と極楽がまったく別なものであり、それが結合されたのは、日本では源信においてであるが、地獄は極楽よりはるかに広く、かつはるかに広いものであるとしたらどうか。

この仮説はもう、読んだ瞬間に「なるほど」と思った。そうであれば、色々な不自然さに納得がいく。地獄と天国(極楽)はムリヤリ結びつけられたものであって、その起源はまったく別のものであったのだ。
 この仮説を感覚的に受け入れられるかどうか、というのはニヒリズムを超えて行こうとする姿勢があるかどうかっていうところなのかもしれない。人生は空しく、仮である。しかし/しかも/そうであればこそ、自分の人生にしっかり足をつけて生きるべきだ、というような。そういう視座に立つと、天国や極楽が、ある種、真摯さの足りない思想に見え、一方で地獄というのがより生き生きとしたものに捉えられるようになるのかもしれない。んー、まあカンタンに言うと、

「はっ、ははははっ、なに言ってんだかコイツは。まったくカンケーねェじゃんタナベなんか。全部オレのもんだ。孤独も苦痛も不安も後悔も、もったいなくてタナベなんかにやれるかってんだよ。」

っていうことですかね。プラネテスの。

プラネテス(1) (モーニング KC)

プラネテス(1) (モーニング KC)

日本文化論として

 後半になると、地獄的な切り口で見る日本の文学、みたいな感じになってしまうところがやや不満ではあるものの、一貫したテーマを追っているのだな、ということは朧気ながら理解できる。そしてもちろん、こうした地獄の思想が日本固有の「魂の深み」を育てていったという見方に立てば、ある種の日本文化論とも読める。
 僕が旅行で地獄を見つけられるのも、国内がほとんどで、遠くても東南アジアくらいまでなので、もしかしたら西洋の「地獄」とはぜんぜん色の違うものかもしれない。もう少し、地獄を歩いてみたいと思う。