貧乏人の経済学

「貧乏人の経済学」(アビジット・V・バナジーエスター・デュフロ)読了。
絶望的な状況に対する唯一の希望は、丁寧な議論の積み重ねである。

貧乏人の経済学――もういちど貧困問題を根っこから考える

貧乏人の経済学――もういちど貧困問題を根っこから考える

 とりあえずマイクロファイナンスを導入すれば、貧しい人々の生活はやがて改善する、というわけではないし、第三世界に蔓延る汚職を規制すれば、援助の効果はすぐさま上がる、という訳でもない。
 自由市場に任せればいいのか、それとも援助を増やすべきなのか、は二択のように見えるが、どちらを取るべきかはケースバイケース。インプットとアウトプットの関係もわかっていない。だから、経験則を集めないといけない。でも、多くの人はそれに満足できない。時間と労力をかければ、検証できるのに、安易な判断に飛びついてしまう。この本がそういう本でなくて良かった。

造りかけの家は何のため?

 アフリカには行ったことがないが、ドキュメンタリーなどでは、よく作りかけの家が映っている。深く考えたことはなかったが、人口が増加していれば造りかけの家を見ることも多くなるだろう。そのくらいに思っていた。しかし、それは違うらしい。なんと、造りかけの家は貯蓄手段なのだという。余剰資金ができると、それはセメントと砂とレンガに替えられ、休みの1日をかけて家が増築される。
 これはどういう意味を持っているかというと、BOPの人々は「造りかけの家」よりも優れた貯蓄手段を持っていない、ということだ。こういう結びつけができているところが、すごい。つまり、経済的な意味での行動と、経済的な解釈がきちんと結びついていて、データとしての裏づけもあること。
 だいたい、現場が遠くなればなるほど、解釈は想像の上に組まれがちで、その上に対策が立案されるから、現場に下ろしてみると、まったく効果がなかったりする。でも、きちんと現場の行動を解釈するのって、非当事者にとっては、そんなに簡単ではない。そういう現場と机上の乖離みたいのを経験してる人にとっては、これはよくやったなー、となるはず。

貧困層のふるまいに既視感がある

 じゃあ、貧困層の行動パターンというのは、僕らとはかけ離れたものなのかな、と思うけれど、意外とそんなことはない。例えば、将来のなりたい職業として公務員がダントツの人気だとか、都市のほうが教育や医療が優れるが地域の絆はアテにできないだとか。なんか、別に本質的なところは変わらないんじゃないか、と思うわけで。
 これを、日本も貧困に片足を突っ込んでいるんだ、というのはたぶん、ちょっと先走りすぎた読み方で、実際は、どちらも同じような構造上の問題を抱えている。ただ、そうした問題の多くは、システムや過去の積み重ねが解決してくれている。だって、僕らは義務教育のオカゲで、生命保険の説明を聞けば生命保険の大切さが理解できるし、価値のある出費であることが理解できる。これがもし理解できないとすれば、あるいは理解する機会が得られないとしたらどうか。そうしたことがあらゆる分野で起こるとしたらどうか。そのとき、僕らのふるまいはBOPの人々のそれとほとんど変わらないはずだ。それで、もう少し構造的に根深くて、解決されていない問題だけが浮かび上がってきて、「あれ、日本と似てるな」という感想となる。
 もう少し進めて考えれば、その辺のしくみの力学を明らかにしておくことは、「どうすれば貧困に転がり落ちていかずに済むか?」という問いを掘り下げていくことであって、先進国にとっても有益なことなのだと思うな。

マイクロファイナンスの議論は最近どうなってんですか?

 ここもずっと気になりつつ、自分のメインの課題ではないかなーと思い、注視してこなかった。ほんとにマイクロファイナンス効果あるんですか?実証データ出てるんですか?というあたり。この辺りは結構掘り下げられていて、どうやら奇跡を起こすマジカルステッキではないけれど、貧困を解決する手段のひとつとして有効だ、ということになっているらしい。

ごく最近までこの問題については、肯定否定どちら側にもほとんど裏付けがありませんでした。(中略)マイクロファイナンス機関が自衛のための強い論陣を張れない理由の一つは、自分たちの効果を証明するきちんとした証拠を集めるのをこれまで自ら嫌がってきたからです。

この15ヶ月間で、新規に企業をした世帯の比率は5%くらいから7%強に上がった程度――ゼロではありませんが、革命的な変化とはとても言えません。

多くの貧乏な人はお金が借りられても、事業を始める意欲も能力もないということです。

 マイクロファイナンスは有効だけど劇的な効果はなく、その課題はマイクロファイナンスの理念やアイデアそのものではなく、環境と社会システムにある。もしその辺をうまくコントロールできれば、強力なツールとなり得る、というふうに解釈した。
 社会問題関連のものを読むと、どうしようもない絶望感に襲われる。ただし、そこで満足してはいけない。そこはスタートだ。その後、なにかを実行に移す、あるいは知識をつける。そうすると、思っていたほど状況は絶望的でないことに気づく。たぶん、自分が勝手に想像した「絶望的な世界」に裏切られる。実際はそんなに状況は悪くないし、正しいはずと思っていたことも、必ずしも正しくないのだと気づく。そして、そこからが2つ目のスタート。反動的でなく、イデオロギーでもなく、ほんとうに必要なことはなにかを地道に手さぐりしていくステージとして。