柳田國男が競争の歴史を見出したものに、南方熊楠はただのリアス式海岸を見た

「森のバロック」(中沢新一)読了。
南方熊楠が「巨人」と言われる理由が、わかった。

森のバロック (講談社学術文庫)

森のバロック (講談社学術文庫)

はじめての南方熊楠鶴見和子南方熊楠 地球志向の比較学 (講談社学術文庫)とも迷ったんだけど、やっぱり細部に拘らず楽しく読むなら中沢さんでしょう、ということで。まあ、事実の回収は後からでもいいし、たぶんたくさん先入観を植え付けられるけど、自覚があればなんとでもなるだろう。

柳田國男が人々の激しい競争の歴史を見出したものに、南方熊楠はただのリアス式海岸を見た

 僕が知っている南方熊楠は、粘菌の研究者というか、博物学から植物学へのシフトが起こる時代に、ちょうど粘菌を調べていたナチュラリスト(この表現が一番しっくりくる)という存在。だから、今回一周回ってきて民俗学の巨人として出会ったときは、そんなすごい人だったのか!と思ってしまった。
 民俗学というのは、農民とか漁師の世界に沈んでいる儀礼や神話とかから、なにか意味のあるもの(笑)を掬いあげる学だと思う。たぶん。でね、僕はここでその起源というか、文脈というか、なんで民俗学なんですか?っていう問いがけっこう大切だと考えている。
 フォークロア、風習とか伝承とかへの興味が日本で最初に盛り上がったのは、江戸時代だ、ということ。つまり、「都市ができてから」ということだ。都市ができると、地方から特産品が集まってきて、今まで見たこともない「自然」が都市の人々の間に登場してきて、こりゃあすごいな、となった。で、ここからアマチュア民俗学が動き出すんだけれど、中沢さんに言わせると、これは「自分たち市民の住む都市なるものの、隠された始原を探求しようとしていた」ということらしい。
 でも、時代は違うけれども柳田國男はそこに別の意味を見出していて、それは、近代文明に対する闘い。柳田國男はロマンチストなんだ。そこに必ずドラマを見出さずにはいられない。柳田民俗学が文学の磁場に囚われている、というのもナルホドである。研究が柳田民俗学の流れに乗ると、それはフォークロアの理解よりも、文学の体系に絡め取られてしまうのだ。
 一方で南方熊楠は、そんなふうにはフォークロアを捉えていない。あくまでもナチュラリストとしてスタートした南方にとって、自然物はどうしても自然物だ。そこにドラマを結びつけるなら、それはなんらかの根拠が必要だろう、と考える。
 すごくおもしろかったのは、柳田と南方の手紙のやり取り。ある日、柳田は南方からの手紙を受け取る。そこには、田辺湾リアス式海岸が極めて複雑に入り組んだ谷でできていることが書いてあった。それを読んだ柳田は「やっぱりこういうのを読むと、古来の人間が激しい競争を重ねてきたことを思わせるね」みたいになるんだけども、南方は「は?なに言っちゃってんの?リアス式海岸が複雑なのは人為とは関係ないじゃん。っていうか、むしろ環境厳しすぎて人があんまり住んでないんですけど」みたいになるわけだ。「」内はイメージです。
 でも結局、僕の民俗学の入り口が柳田國男じゃなくて南方熊楠になった理由もこの辺の思想/思考の近さによるのかもしれない。以前に「熊から王へ」(中沢新一)を読んだときに、伴読部メンバが全員「王の誕生経緯/理由が謎じゃね?」と総ツッコミになったときは大変おかしかったのだけれど、たぶん中沢さんも自分がロマン派民俗学寄りだってのを自覚してるんだろうなー。

地獄とは、「目を逸らさないで見たときのリアル」

 南方のこうしたスタンスは、歴史や神話の解釈にも及ぶ。柳田を初めとして、民俗学者は「人々」の残酷な仕打ちに対して、実はそんなものはなかった、あれは神話の上での話で、解釈するとこういうふうになる。という論の運びが好きだ。だけど、南方はそれを許さない。いえ、人柱はありました、この資料もあるし、これもあるし、こういうのもあります、というふうに目を背けない。細かい神話の解釈は割愛するけども、

人柱は現実であり、私の内部では人柱の残酷な儀礼が、つづけられている、と断言するのが、南方民俗学の主体なのだ。(中略)ホテルから一歩外へ出たとたん、そこに見た馬車につながれた馬の姿に心を打たれ、馬の首をいだいて、涙を流すニーチェニーチェはこの瞬間から、狂気の淵へ沈んでいくのだが、この狂気すれすれの優しさをもった人間だけが、存在の奥底にくりひろげられている残酷を見ることができる。熊楠には、その光景がありありと見えていた。

ということなんだ。ロマンに逃避しないということと、なにも感じないということはぜんぜん別のことで。そして、この光景こそが、僕が常々追いかけていた地獄の光景に違いない。「地獄の思想」を読んだときに、地獄っていうのは、善悪の価値判断とは関係のないものだ、と気づかされたわけなんだけれども、じゃあなんなの?というところには留保があった。
 そのときはブクマで「地獄というより、多様な世界を見たいのかね」みたいなコメントもあって、あー、まー、そうかもなー、でも違うよーなー?と思っていたのだけれど、今はわかる。多様であることも必須だし、残酷であることも必須だ。なぜなら、世界はそもそも多様で残酷だから。ロマン的な方向やイデオロギーっぽい方向に逃げると、そうしたものに目を向けなくて済むようになる。でも、それじゃあダメだ。少なくとも僕はそうしたくない。というのを言い換えると、「地獄を見たい」になるんだ。
 あ、ちょっとすっきりした。悟りを開きましたね笑。で、まだ言語化していない部分は、じゃあどうしてそれが現実の景観と結びつくの、というところかなあ。

ここからの流れ

 今ちょっと思想的なほうに振り切れてしまったけど、現代の社会システムとローカルさをどううまく接合していけばいいのかな?という文脈とか、都市の始原はどこにあるんでしょう?という新しいキークエッションもあるので、このまま南方民俗学も追ってみたいと思う。まあ正直、南方マンダラはさっぱり分かんなかったし。
 一方で、ラスボスみたいに随所に現れてくる柳田國男も気になるんだ。実は「地獄の思想」のときも、いつのまにか梅原猛による壮大な柳田disが始まっていたし、実は「婆のいざない」のときも、柳田民俗学でない民俗学は可能か、という話を赤坂憲雄がしていた。加えて、今回の南方熊楠VS柳田國男。ちゃんと読んだことがないのだけれど、いずれ遠野物語にも手を出さないといけないなーと思っている。今年から青空文庫で読めるようになったらしいので、タイミング的にはけっこういいんじゃないかな。良い読書の流れだ。