世界の化けの皮ひっぺがしちゃいますよ!

百年の孤独」(ガルシア・マルケス)読了。
僕の解釈→「マジックリアリズム」=「世界の化けの皮ひっぺがしちゃいますよ!」

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

 人間ひとりを1つのまとまりだと捉えるのは、必ずしも「自然な」アイデアではないらしい。アニミズムの研究とかをしている人の話を聞くと、「個人」というのはあくまでも西洋が「発明」した概念で、自分と他人の境界というのは、それほどまでに明確ではなかったとか。
 もし、そうした考え方が有効であれば、家族、あるいは家(というよりイエ?)、もしくは地域をあたかも一人の登場人物のように描くこともできるだろう。そして、総体として孤独を感じることさえできるかもしれない。僕は常々、「孤独」という言葉ほど人によって定義がまちまちな言葉もないと思っているけれど、「百年の孤独」の「孤独」は、こちらからは見ることはできても、手を触れることのできない、観察者型の孤独だろうと思う。イメージとしては、自分が樹になったような感じ。子供が樹の周りで遊んでいて、成長して樹の下で本を読み、いつしか家族を引き連れて樹の下でピクニックをするが、やがて彼は老いて樹は取り残される。こちらからは触れることが許されず、ただ時間だけは経過していく、というような。
 そういう、樹に相当するようななにかが、たぶん「百年の孤独」には存在している。それは「家系」かもしれないし、「イエ」かもしれないし、「街」かもしれない。それがなんなのかはよくわからないけれど、「個人」ではない、もう少し大きなまとまりが、意図を持ってふるまう、力を行使する、という概念があるように思う。もしかすると、マジックリアリズムがヨーロッパよりもラテンアメリカでうまく根づいた理由がそこら辺にあるだろうか。美しい少女があまりに美しいばかりにそのまま文字通り天に昇ってしまったり、子どもに豚のしっぽが生えてしまったり、そういうなんかよくわからない力は、個人が行使しているのではなくて、その空間が、あるいは集団が行使しているとみなすと、わりとハラオチする。
 っていうかむしろ、こういう超常現象が、個人によって所有されるように描写されることってまったくないんだよね。マジックリアリズムという言葉さえ「エレンディラ」を読んで初めて知ったような人間なので、文学の知識はさっぱりないので、こんなことはアタリマエなのかもしれないけど、なんかマジカルなことが起きるとき、その現象は誰にも所有されない。異能者モノが超能力を巧みに操ったり、剣と魔法の世界で魔法使いが自在に魔法を使うのとは全然違って、その現象は人間にはコントロールし得ないものみたいなんだよね。だからまあ、それは火山の噴火とか、突発的な洪水みたいなもので、あたかも「自然」のように扱われている。
 うーんと、ということは、マジックリアリズムのマジカルな部分は、特殊な現象なんじゃなくて、ふつうの現象なんだ。守り人シリーズに、同じ場所に立っていても、別の世界が同時に見えるっていう話があったけど、あれみたいな感じか。あるいは、1Q84の、1984年と1Q84年というか。いやらしく書けば、ふだんは都市で生活している人たちは何食わぬ顔で生活しているけど、化けの皮を剥いだら、ほんとうは全然違う異形の生物でした!みたいな。ふつうは見えないはずなんだけど、それがなにかの拍子に表に出てきてしまう。なるほど、マジックリアリズムがなんでスゴイかが少しわかった。だって、そういう表面に現れてきていないものを表に引きずり出してくるのって、すごく難しいじゃんね。しかも一方で、文学なら、文学こそが得意な方法でもあると思うし。文学の世界ではその辺、どういうふうに評価されてるんだろうな?ここら辺は少し調べてみたい。
闇の守り人 (新潮文庫)

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1Q84 BOOK1〈4月‐6月〉前編 (新潮文庫)

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