人間にとっての、物語の必然性
「密林の語り部」を読む。すごくおもしろかった。個人的に、自分の思想によく連なる内容でありながら、新しい視座を与えてくれる物語だった。
- 作者: バルガス=リョサ,西村英一郎
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2011/10/15
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マルケスの「エレンディラ (ちくま文庫)」を読んでからというもの、ラテンアメリカ文学にもそれなりに興味があって、「百年の孤独」も酒を呷るように読んだ。だけど結局マルケスしか読んでないから、ラテンアメリカ文学=「未開と現代が混じり合うなかに生まれた幻想的な雰囲気の漂う文学」くらいのことになっていて、マジックリアリズム売りなんだよね、という理解になっていた。
だから、「密林の語り部」を読んで、秩序立てられたつくりに少し面食らった。もちろん、章ごとに語り部による語りが挟まれるが、中沢新一の受け売りで(笑)神話を構造的に理解したつもりになっている身としては、挿入される語りは見事に「神話としての要件を満たすように的確につくられているように」見える。リョサが実在する「語り」をベースに用いたのか、ゼロベースでつくっていったのかはわからないけど、植物にも種類によって男と対応するもの、女と対応するものがあるという二項対立の考え方、集団の存続を脅かす行為をしたものは人間ではなく動物に変わってしまうという考え方など。ナマの神話というものに触れたことはないけれど、ノイズが少なく、システマチックにつくられていると感じた。
加えて、問題意識、テーマ設定が明確だ。文明化されることによって失われるのは、民族のどういう部分なのか?あるいは、民族はなにを喪ったときに、滅びてしまうものなのか?
文学が好きな人は、こういう「かっちりした」作品よりも、それこそマルケスのような評論しづらい作品を高く評価する傾向があるように、僕は偏見を持っているけど、僕としてはこういう作品がわりと好きだ。明確なもので周りを固めていけば、明確でないもの、考えなければいけないところは自然と際立つからだ。
この本を読んでから、六本木の青山ブックセンターで、マルケスとリョサの対談本を手に取った。今読み中だが、マルケスが飄々とした雰囲気で、しかし濛々と立ち昇る煙のような語りをするのに対し、リョサの語り口は明晰でマジメ。両者の違いがよくわかる。「緑の家」を読んだらそんなことも言えなくなるのかもしれないが、ともかく、マルケスとリョサなら、僕は圧倒的に後者がすんなりと入ってくる。
- 作者: G.ガルシア・マルケス,M.バルガス・ジョサ,寺尾隆吉
- 出版社/メーカー: 水声社
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- 作者: 水村美苗
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
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マチゲンガ族をマチゲンガ族たらしめていたのは、物語であった。きっと、レイヤを変えても通じる話だろう。日本人を日本人たらしめているのはなんだろうか?それは血縁のような物理的なものではなく、言語であったり、物語であったりする。だから、人間にとって、物語の存在は必然だった。神話という形態であれ、民話と呼ばれるものであっても、もしかしたら文学や小説のようなものでも。
遠野物語は、遠野の物語であった。遠野以外の地域にも遠野物語に相当するものがあった。しかし、それらは喪われてしまった。ローカルな集団は都市化とともに喪われてしまった。多くの先進国では同じことが起こってきたはずだ。物語の解体は集団の解体でもあるということだ。
僕らが知っている、聞いたことのある神話や民話は、本来それ以上の価値があったものだった。しかし、集団を集団たらしめる物語は、まず間違いなく喪われる運命にある。グローバル化のなかで、止められるものではない。自然は常にエントロピーの大きいほうへ。きっと、僕らにできることは、そうした物語と集団の関係に意識的であるようにし、尊重することだけだろう。
リョサの東大での講演も視聴したいと思ったけど、これって日本語訳も英語訳もないの!?→http://todai.tv/contents-list/events/73hgcz/f9v3oi
- 作者: 柳田国男
- 出版社/メーカー: 角川学芸出版
- 発売日: 2004/05/26
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