犬の伊勢参り

ちょうど伊勢へ行くので、予習がてらに。けっこう「考える余地」のある本なので、おもしろいです。

犬の伊勢参り (平凡社新書)

犬の伊勢参り (平凡社新書)

伊勢参り

 プロジェクトの切れ目を狙い、お伊勢参り。日本人の旅行の起源はお伊勢参りにあるという。名古屋から「特急みえ」に乗り、海沿いを走り、鳥羽を拠点とした。かつて、多くの日本人が切望した参詣を、少しの好奇心とわずかな時間で成し得ることに、かすかな断絶を感じながら、外宮と内宮を訪れる。

 式年遷宮の後だったので、まだ真新しい宮が立っている。アニミズム的なごった煮感は一切なく、明るい森と宮と風だけがあって、大変シンプルな空間だと思った。沖縄の御嶽の空間のように、「なにもない」ことが「なにかが降りてくる」ことを想起させるようにできているのだろう。……まあ、人はごった返しているけど。

 伊勢参りの願いごとは、「良い縁がありますように」とか「受験に合格しますように」とか、個人的な願いはNGらしい。パブリックな神様だ。そろそろ本題に戻ると、犬もお伊勢参りしてきた歴史があるのだとか。その謎を解き明かすのが本書。ほんとうに犬が伊勢参りをしていたのか?もしYESだとしたら、なぜそんなことが可能であったか?

犬の伊勢参り共同幻想に支えられている

 白い犬が伊勢を目指して歩き続ける。真っ先にイメージするのは「大神」というゲームだ。「大神」は犬=アマテラスがヤマタノオロチを倒しにいく物語で、世界観が心地良い。犬がアマテラスなのは、本書を読んだあとには違和感があるものの、まあ、そこはご愛嬌。

大神 絶景版 - PS3

大神 絶景版 - PS3

 アクションゲームでは、プレイヤーキャラクター=プレイヤー自身なので、ステージをどうやって進んでいいかは一切わからない。そこで、よくできたゲームは、チュートリアルやマニュアルをゲームに組み込む。どうすれば先のステージへ進めるのか?どうすれば障害物を越えられるのか?そういったことは自然とわかるように設計される。
 しかし、現実はゲームのようにはいかない。伊勢参りをする、という目的を持たないはずの犬が、どうやって伊勢に向かうのか?飼い主に希望を託され、伊勢参りに向かった犬はどうやって伊勢まで辿り着くのか?もちろん伊勢参りをする犬というのは、かつて伊勢に行ったことがあるから行ける、ということではなく、まったく初めての犬も含まれるという。
 詳しい考証は本書を読んでもらうとして、結論は、犬の伊勢参りは、人々の支えがあって初めて成立したということだ。噂が先行し、犬を見かけた人が「これが噂の伊勢参りの犬では?」と考え、木札に遭遇場所を書き記して首に下げ、銭の穴にひもを通して首にまいてやる。これで、立派な「伊勢参りの犬」のできあがり。
 血液型別性格診断の話に似ている。アタリマエだが、血液型が性格に影響することはない。しかし例えば、「O型は大雑把だ」と周りに言われ続けると、O型の人が「私は大雑把なのだな」と思い込み、実際に大雑把になっていく。思い込みが現実に影響していくというプロセス。

野良犬ではなく、里犬

 そういう共同幻想が成立するにはたぶんいくつか条件があるだろう。本書では、伊勢参りとは直接関係させないものの、「里犬」の存在に言及していた。ここで言う「里」は里山の「里」とほぼ同意義だ。パブリックな所有物であって、誰のものというのではなく、皆のものであり、皆が管理するものということ。
 この間、NHKの「世界ふれあい街歩き」のアテネ回を見たけど、犬が街中に寝転んでいるのが、よくカメラに収められていた。ベビーカーを押して店に入ろうとする婦人が、店先に寝ている犬のせいで入れない。けど、その犬を起こして店に入るんじゃなくて、店員と協力して、ベビーカーを持ち上げて店に入る。これ、絶対日本ではあり得ない光景だと思う。「申し訳ございません」とか言って、犬を追っ払うんだろうから。財政危機で捨て犬が増えても、絶対に犬猫を殺処分しないギリシャは正直なに考えてんのかよくわからないけど、それでも、犬が気持ちよさそうに寝ているのを見ると、「これでいいんだ」って思えるのかもしれない。
 現代でこそ、犬は個人が所有するという形式を取るが、街の人みなが飼う犬というのが存在していた。それは、アテネのような風景かもしれない。野良犬(=誰も飼っていない犬)ではなくて、街の人が共同で世話をする犬だ。人間と犬の1対1の関係ではなく、多対多の関係があった。
 犬の面倒を見てやる、という仕事がコミュニティの仕事であったから、人慣れする放浪犬を受け入れる土壌があった。そう考えられる。自分の家の犬だか世話をすればいいのではなくて、「みんな」の犬を世話してやる。一匹や二匹増えたところで大した違いはない。その中に伊勢へ向かう「旅人」のような犬がいたら、その犬の世話をしてやるのも自然なことだ。自分たちの犬も、お世話になるのかもしれないのだから。