春の新書祭り

電車での長距離移動が増え、まとまった時間ができたので、親書をいくつか読んだ。企画中だった新書を増税前の3月までに出してしまおうという出版社の意図だろうか、ラインナップに興味を惹かれるものが多かった。

インフラ分野が政治に翻弄されてきたことがよくわかる。公共事業は、あるべき「必要性を検討し、優先順位をつけ、実行に移す」という当然のプロセスを踏まずに進んできてしまったけど、これからは、上の世代が造ってきたものを適切にメンテして延命していく以外には方法がないので、昔ほど「政治にとって旨みのある領域」にはならないだろうなあ。ただ、どこに選択して資本を投下していくか、という「選択と集中」が国民から強く要請されるようになるはずで、これは成長期の「どこを優先的に開発していくか?」というテーマと構造的には一緒なので、合意形成のうえでなにがまずかったのか?どうすれば良かったのか?というLessons Learnedはかなり有効なはず。
東大教授 (新潮新書)

東大教授 (新潮新書)

僕の勝手な印象では、東大(に限らず)教授というのは、自分の立ち位置を、自分の望むようにコントロールしやすいポジションと思っている。もちろん、分野によって違うとは思うけど、アカデミアで研究をひたすら突き詰めていくのか、企業や公共との関係性を深めて社会への影響力を深めていくのか、教育への比重を高めていくのか、マニアックな領域を突き詰めていくのか。企業人や公務員と比べて、これらのバランスをコントロールしやすい、だろうなと思っている。「私は研究者なので」というお断りは、「社会に対する責任は自らの知で負うものであって、それ以外ではない」というタテマエとニアリーイコールであって、他の立場ではなかなかないように思えて、そこが魅力的。ここは退屈迎えに来て」とか、最近の本だけど、こういう人達に満ち満ちている「地方は退屈。東京の劣化コピーだから」みたいな発想がもう過去のものになりつつある、というか、そうでない流れが成立しつつある。大都市が輝いて見えた時代、というのはひとつの価値観が大変なパワーを持っていたから成立したのであって、豊かな社会では、大都市的な価値観の人間も、地域から出たがらない「ヤンキー」も、どっちも成立し得るということと思う。ビジネスの分析として切りだされているけど、これって当然カルチャーと価値観の話でもある。コピーであるかどうかとか、より優れたモノを求めたい、といった価値観とはまったく別のところに価値観を見出しているというのは、わからない人にはまったくわからないのだろうなあ。