わが悲しき文豪たちの思い出

マルケスが亡くなったそうだ。読み途中になっていた、マルケスリョサの対話を急いで読む。急いで読んだって仕方がないのだけど、例えばそれは、すでに出発している、想い人が乗った電車を2,3歩ほど追いかけるような気持ちに近いかもしれない。

疎外と叛逆ーーガルシア・マルケスとバルガス・ジョサの対話

疎外と叛逆ーーガルシア・マルケスとバルガス・ジョサの対話

 それほど部数が伸びるはずのなかったマルケスリョサの対談本は、今頃、増刷の準備で大忙しだろう。買っておいて良かった。ラテンアメリカ文学の巨匠、マルケスリョサ。2人は対照的だ。煙に巻くように、無数の物語を編み続けるマルケスと、あくまでも現実的に、実直に物事を捉えようとするリョサ。2人の対談では、その差が浮き彫りになる。
 リョサは、文学の破壊的な側面、社会への影響力に対し、「作家はどの程度意識的なのか」と問いかける。リョサは「意識的な」作家だと思うので、リョサ自身は、5段階評価なら「まあまあ意識的」に丸をつけるくらいの心持ちだったろう。一方、マルケスは、意識的であった瞬間に、作品は失敗の道を辿る、という。むしろ、文学とはそうした社会への影響を意識してつくるものではなく、「個人的葛藤を解消するための手段」とまで言っている。
 「百年の孤独」には、家族を連れて新しい町をつくった彼の祖父や、自身の死を予期する叔母が、かたちを変えて登場している。「個人的葛藤を解消するための手段」というのは、リョサにとっても頷ける内容だったようで、この対談(1967)ののちの、リョサへのインタビュー(2013)が収録されていて、ここで「都会と犬ども」について、似たようなことが語られている。
 創作への意欲は、「個人的葛藤を解消するための手段」からしか生まれない。そう言い切っても、もう問題ない。物語そのものは、社会的なメッセージを伝えるためとか、商業的な意味合いとか、承認欲求などから生まれるかもしれないが、「創作がしたい」という欲求そのものは、個人の葛藤に根づいているだろう。そうでないものは、創作以外の手段で代替可能なのだと思う。この個人的葛藤を突き詰めていって、普遍的な内容に昇華すると、「百年の孤独」や「都会と犬ども」になる。
 対談では、リョサマルケスとその作品に敬意を示しているのがわかる。作風こそ違うが、ラテンアメリカの文学を担うものとして共闘すべき、していこうという意思が見え隠れする。だからこそ、1976年にリョサマルケスに顔面パンチを食らわせた出来事は、なにかこう、もどかしい気持ちを思わせる。
 事実はわからないが、僕はリョサに共感的だ。なんというか、他人に期待している、世界に期待しているところが多分にあって、現状では満足していないけれど、こうあるべきだ、という少し複雑な理想形がある。特に、マルケスのような、自分にはない、ほとんど先天的とも言える大きな力を持った人物に対しては、ある種の羨望とともに、大きな期待をかける。顔面パンチは、マルケスへの期待が裏切られたことへの腹いせのようなものだったかもしれない。
 しかし、リョサマルケスの作品には敬意を払い続けたように、作品としての価値は揺らぐことがない。ガルシア・マルケス。偉大な語り手であった。
百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

エレンディラ (ちくま文庫)

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