「笹まくら」を戦争ものだ、というだけで評価したくない

笹まくら。笹を枕にしたときのように、かさかさと不安な旅。

笹まくら (新潮文庫)

笹まくら (新潮文庫)

時代の空気を読む

 この時代、70年代くらいの小説は、いつも不思議な感じがする。「風の歌を聴け」とか「箱男」とか。自分が生まれる前のことだから、その時代の空気を体感したことは一度もなくて、だけど、ちょうど親の世代はそうした空気を吸って生きてきたようなので、実家の本棚にはその時代の本が多い。戦前や50〜60年代くらいの雰囲気は、もう完全に断絶があって「教科書で見た」レベルだけど、70年代の空気は、想像力による補完で、どこか届きそうに思える距離感である。
 だから、この時代の物語に「戦争」のキーワードが入ってくると、ちょっと背筋がぴくっとなる、というか、時代の連続性を感じて、「やっぱりつながっているんだ」というふうに思う。
 笹まくら。笹を枕にしたときのように、かさかさと不安な旅。徴兵忌避の過去。平和な時代が訪れてなお、過去に苛まれ続ける男の物語。そうした過去を持つ人間が存在し得る時代だった。だけど一方で、「不毛地帯」の主人公がソ連の抑留から戻ってきて、商社に入って戦闘機の売り込み合戦していたのと同じ頃なわけで。個人の考え方にどう「戦争」が結びついているか、というのが一概には語りつくせないのだなあ、と。

「苛まれる」という人間の本性を描いた小説として読みたい

 ただ、戦争のある側面をうまく切りだした小説だ、という評価は、本作を不当に落としめている、んじゃないかなあ。
 中学校のころの国語の授業を思い出す。いわゆる文豪の作品が選ばれて、いくつかのパートに分けられる。それを4〜6人くらいのグループの持ち回りで「読解」していく。「この行動をとった理由はなにか?」とか「この描写はなにを意味しているか?」とか、自分達で問いを立てて、自分達で回答していく。出来レースである。
 そのとき流行していたのが、とにかく戦争の匂いを嗅ぎ取ったら勝ち!みたいなやり方だった。先生がそういうものを評価したからなのかどうかはわからないけど、登場人物の描写、風景の描写、そういったものを取り上げて、「これは戦争を暗示しています」みたいに解説するのが「流行っていた」。
 当時から僕はしょーもないな、これは。と思っていたのだけど、どうも文学の世界というのだろうか?文芸の業界というのだろうか?そういうところでも、「戦争の匂いを嗅ぎ取ったら勝ち!」的な評価があるような気がしている。もちろん、どこに?と言われても即答できるほど詳しくないけれど、「戦争のことを忘れるな」というメッセージを込めるだけで評価されるのって、違うだろう?と思うのである。物語は、もっと普遍的で奥深いテーマを、立体的に語り出せるはずだ。
 そういう意味で、僕はこの物語を、「苛まれる」という感情と経験をすばらしく表現した小説、として評価したい。一時代を表現しただけの物語ではなくて、もっと人間の本性に根差した物語であると思っている。まさにタイトル「笹まくら」であって、考える必要のないことを考えてしまったり、トラウマのようにいつでもその物事を強迫的に思い出してしまったり、そういうことは誰しもあるはずで、それが物語全体の骨格となっている。
 「自分は逃げたのだ」という意識に苛まれ続ける、という体験は、意外にも現実ではできない。精神的な健康さを保つには、その意識をどこかでストップさせないと身がもたないわけで、この感情に浸るのは、なかなかできる体験ではない。自分を究極的に苛め続けられる。そう、「笹まくら」ならね。もちろん、普遍的であればあるほど価値が高い、などと言うつもりはないけれど、テーマに戦争なんぞを絡めなくても、「笹まくら」はちょっと他ではできない読書体験だったろうと思う。