受け取る物語としての「トーマの心臓」

トーマの心臓」(萩尾望都)読了。
エーリク、ユーリ、オスカーの誰に感情移入するか?

トーマの心臓 (小学館文庫)

トーマの心臓 (小学館文庫)

 森博嗣が本を1冊書いてまでオススメしていた「トーマの心臓」をようやく手にとった。基本的にこのブログではコミックは感想を書かないのだけれど、書きたいと思うことがあったので、書いておこう。
 まず、「トーマが自らの死をもって愛する」ということの崇高さに感銘を受けるんだけど、もしかして、「トーマの心臓」の凄さはそっちじゃないかも、と思い返す。なんていうか、「与える側の物語」というよりも「受け取る側の物語」としての強度の方がはるかに高いんじゃないか、という。
 トーマが死をもって伝えようとしたこと。それは、「誰かを愛すること」を失ってしまった(=「翼を失ってしまった」、「内側が死んでしまった」)ユーリに対し、どうか大切なものを失わないでほしい、と伝えること、愛することの大切さを気づかせることだ。ああ、トーマすごいな、そんなふうに誰かを愛せるなんて尊いことだな、と思うんだけどね、でも、自分の胸に手を当てて考えると、誰に一番感情移入してたかなっていうと、実はユーリなんだよね。
 脱線するけど、感情移入して読むことが最近減ってきているな、と思う。小中学校の「国語」では猫も杓子も感情移入だけど、色々な読み方を始めると、物語の構造がー、とか、作者がこういうことを書いたバックグラウンドが―、とか、自分の体験と照らし合わせると―、とか雑音がうるさくて、純粋なロールプレイング的読み方は日々難しくなっている。それでも感情移入という読み口は自分の本音とナマに接している部分なので、殺したり固めたりしないでおきたいと思っている。
 そういう切り口で一番センサーに引っかかっていたのは、ユーリなんだ。愛を与えられても、何度も何度も拒絶してしまうユーリ。たぶん想定される読者目線はエーリクなんだろうな、と思う。一般的に、読者と同じくらいの情報量を持つキャラクタが、読者の目線として設計されるから。
 「トーマの心臓」はどうやってユーリに受け継がれたのか。そのプロセスを一言で言うのはたぶん無理だ。それを支えたのは見守るような視線を持つオスカーだし、素直にふるまうことのできるエーリクだし、そんな彼らの関係性でもある。
 愛は与えるものだ。与えるかたちの愛こそ尊い。それはよくわかる。それでも、一個人の全力を込めた想いは、受け取るのがすばらしく難しい、とも思うのだ。それは大きな負荷となるものだし、自身のクリティカルな部分に刺さるものである。だから、安請け合いできるものではないし、容易に受け止められるものではない。それは、個別のストーリーの中でしか、個別の関係性の中でしか受け入れていくことができないものだろう。