渡りの足跡

 好き嫌いを言葉に起こしてみよう、言語化してみよう、と思い始めている。「渡りの足跡」を読んだ。渡り鳥に対する細やかな目線、そこから大きく自然を捉えて、畏敬的な感覚へとつなげること。こういう感じ方、考え方、表現の仕方はけっこう好きだ。積極的に摂取したいと思う。

渡りの足跡 (新潮文庫)

渡りの足跡 (新潮文庫)

 一方で、自分の考え方を勝手に自然に投影して解釈することが嫌いだ。もちろん、自覚的であればいいと思うのだけれど。
 例えばこの本には、弱ったキツネとカササギの話が出てくる。弱ったキツネの前に置いてある肉に気づいたカササギが肉を引っ張る。キツネがなんとか追い払うものの、再びカササギがそれを引っ張りにくる。キツネがそれを追い払う。というようなことを繰り返している。
 それを、梨木香歩はなんと表現したのか。「マグパイ(カササギ)はその鶏肉がサー(キツネ)の生命線だっと直感的にわかったようだった」「明らかにマグパイはサーの力を見きって、遊んでいたのだ」。
 僕が決定的に違和感を感じてしまうのはここである。カササギは鶏肉が生命線だと理解などしていないし、遊んでなどいなかったはずだ。キツネの生命線であるという理解と、自分の糧を得ることに関係はないし、生物が自身の生命を賭けて遊ぶことはない。
 ネコが虫を殺して遊ぶかもしれないが、ワニの目の前に行って肉を取る遊びはしない。これを「遊び」だと感じてしまうのは、人間の残酷な本性を投影しよう、投影したいと思っているからだ。そういう残酷な「遊び」をするのは、人間、あるいは一部の哺乳類くらいだ。カササギが残酷にも死に瀕したキツネから鶏肉を奪おうとしている、みたいな書き方を、ネイチャーライティング、自然を表現する文脈のなかでやってほしくないな、と思う。
 別に、村上春樹がやるんだったらいいし、東野圭吾がやるのも勝手だけど、もし自然をちゃんと書くつもりがあるなら、越えてはいけないラインがあると思う。その境界を越えたがるような方向性に進むのであれば、例えばアニミズム的な人と自然の関わりであるとか、感情の機微に自然を交えて語ろうとするのであれば、自然の事象をあるがまま捉えているのだ、という姿勢はちょっと違うだろ、と思ってしまうのだ。
 で、まあそれだけ書くと、底が知れてしまう(僕の)。この「底が知れる」という言葉はオモシロイと思う。もともと、その程度か、という意味であるけれども、底、つまりキャパシティを知るのってけっこう大切じゃないか。自分の「底」くらい知っておきたい。
 ようは、なんでそんなところに自分が引っかかるの、ということで、ちょっと考えてみた。どうも、僕は自然を「人間でないもの」として捉えたがる傾向があるみたいで、人に固有なもの、例えば、意図的な無駄や、ねじ曲がった心情、とか、そういうものを自然に持ち込むのが大変嫌いみたい。
 人に固有なものは、ある意味ですごく価値のあるものだと思っていて、生きていくために不必要なことをするのは人間らしい、意味のある行為だと思う。でも、それは自然界にはすごく存在しにくい。
 自然は残酷だ、というキャッチコピーを見るけど、自然はニュートラルであって、それを残酷だと思うのは人間だけだ。
 僕が持つ自然への畏敬は、そのニュートラルさに対して。時々息を飲むような、あたかも意味があるようなパターンを映し出しながらも、なにも考えず、なにも思わず、なにも意味しない、というところである。少なくとも、渡り鳥はそんなことを考えていないだろう。