「壁と卵」の現代中国論

この本を初めて開いたのは、ちょうどPM2.5が話題になっている頃だった。とある部品メーカーさんとお仕事をしていて、栃木にある工場にいたのだけれど、花粉なのか、黄砂なのか、それともPM2.5なのかわからないけれど、マスクを外すと目がシバシバするのだ。空が霞がかって見える。中国に対する反感が、マスコミを覆っている。自分のなかにも流れこんでくるのがわかる。でも、よく考えてみると、いま自分のしている仕事は中国にある工場のためだった。日本にあった工場を中国にいくつも移転している。そうしなければ価格は維持できない。アタリマエだ。ただそれは、問題を外側に移転している。遠くに追いやったはずの大気汚染が舞い戻ってきている。地球環境がリスクを「再分配」している。まったくロジカルではないのだけど、そんなふうに思えてしまう。

「壁と卵」の現代中国論: リスク社会化する超大国とどう向き合うか

「壁と卵」の現代中国論: リスク社会化する超大国とどう向き合うか

中国を理解するときに、村上春樹の「壁と卵」のスピーチを軸にする、というのはうまい切り込み方だと思う。

If there is a hard, high wall and an egg that breaks against it, no matter how right the wall or how wrong the egg, I will stand on the side of the egg.

強固で高い壁と、それにぶつかって砕ける卵があるとして、壁がどれほど正しくても、卵がどれほど間違っていても、私は卵の側につきます。

というのも、総体と個人の印象がこれだけかけ離れてる国って他にないんだよね。なんというか、知り合いのアメリカ人が集まったらUSAはできそうな気がするし、知り合いのインドネシア人が集まったらインドネシアになりそうな気がするんだけど、中国だけはイマイチそういう印象が持てない。最近はどんなコミュニティに行っても中国の方がいるんだけれども、彼ら彼女らが集まっても、中華人民共和国にはならないよなーというのが正直な感想。そこのギャップが大きいということはまさに、中国という「壁」が、卵(個人)ではいかんともしがたいものになってしまっているということなんじゃないか、と思う。

民主化された社会よりも「自由」な専制社会

 村上春樹は、壁を造ったのは人間なんだ、壁のために壁があるんじゃない、だから人間が壁をコントロールしなきゃいけないんだ、と言うのだけど、僕はここに少し「ねじれ」があると思っている。ここで言う人間って誰なんですか?っていうこと。
 「壁と卵」っていう対立軸ならシステムVS人間なんだけど、そのシステムをつくった人間と、システムにコントロールされている、されそうになっている人間というのは必ずしも同じじゃないんだよね、って。基本的にシステムのほうが人間より長生きであることが多いから、時間軸を追わないと壁が壁たる所以がわからないし、壁をコントロールする方法もわからない。そこは「東インド会社とアジアの海」でも書いたように、「歴史を学ぶことは、社会の力学のセンスを得ること」なんだと思っている。
 著者は貨幣制度と財政を追っていくんだけど、そこから浮かび上がってくるのは、「中国では、地域社会が政府権力とは自律的に成立してきたっぽい」ということ。詳細な議論は割愛するけれども、ようは「究極の小さな政府」のよう。

中央政権の側も、地方の「制度外」的な動きが、自らの政権の基盤を揺るがすようなものでない限り、かなり寛容かつ不干渉の姿勢を貫いてきた。

 政治領域に関しても著者は、「ある意味で民主化された社会よりも「自由」な専制社会というのがありうる」とすら述べている。まあ確かに、あの馬鹿でかくて、色んな民族がいる国をコントロールするには、「根幹は抑えるけどあとは好きにやって」というスタンスでやらないとうまく回っていかないだろうな、というのは感覚的によくわかる。こういう構造に社会全体が馴染んでしまっている以上、民主化が難しいんだろうし、個人と、システムとしての「中国」とが乖離するのは、当然といえば当然のことなんだろう。

アジア的専制の起源

 そういう「自由な専制」の起源がどこにあるか、という話は興味深い。

それは端的に、水利灌漑の大きな役割に支えられた村落共同体と、その上に専制的かつ官僚主義的な統治機構が聳え立つ、マルクスが『資本論』その他で分析の対象とした西洋社会とはまったく異質の構造を持つ社会として、中国に代表とされるアジア社会を捉えようとするもの

という、稲作の成立を基礎とする農村社会があったから、そういう社会が成立したんですよ、西洋とは専制の意味がちょっと違いますよ、という『銃、病原菌、鉄』のジャレド・ダイアモンド的な考察の仕方である。
 ウィットフォーゲルという東洋学者に論じられたこの論はしかし、マルクス主義をベースとしている共産党には都合が悪かったらしく、「なかったことにされた」らしい。この辺がすごくねじれてるなーと思う。
 僕はこの辺の考え方がよくわからないんだけど、「思想とかをなかったことにする」っていうのがいまいちピンとこない。やっぱり、掘り下げると、現状がどういう過程で成立してきているのか、とかそういう起源と過程の問題と、これからどうすべきか、どうあるべきか、っていう話は別だと思うんだけど、そういう考え方っていうのは、「左」か「リベラル」というふうにラベリングされるんだろうなあ。

日本人としてどう中国に向き合うか?

 結局はこの問いに落ちる。東アジアの情勢が結構ピリピリしているときにあって、平和を願うだけで「中国と仲良くしましょう」という姿勢は、たぶん弱すぎる。壁に卵ぶつけるのも大切な活動ではあるのだと思うけど。
 著者によると、時代を跨いでみても、日本人の中国に対するスタンスは3種類しかないという。

(1)中国の構成原理は欧米とは異なるから近代的な制度は根付かず、そういう国とは距離をおくべき
(2)中国の発展や連携強化は日本の利益になるから歓迎すべき
(3)中国内の抵抗勢力が中国を変えていくことを期待して、そこと連携を図るべき

 まあ、一般人の感覚からすると(2)がまともで、あとは(1)なのは周りを見てもいわゆるネトウヨさんしかいないよね、と思う。個人的には、ネトウヨっていうのが本当に一定のボリュームとして存在するのかどうか疑問に思っていて、なんとなく中国や韓国に良い印象持ってない人たちがなんとなくテンプレ的に書いているだけで、別に深い信条や信念があるわけじゃないような気がする。
 で、(3)の立場っていうのは、わかるんだけど、ある程度中国の情勢やスタンスに詳しくならないと下せないポジショニングで、これが多数派になるのは難しいんだろうな。
 ここまで書いてみて、ちょっと日中関係に無関心すぎたな、と思った。日本人として中国とどう向き合うかっていうのを考えるためには、冷戦、中国内の社会構造、特に戦後の経緯かなんかを理解しないといけないと思うんだけど、そういうのって学ぶ機会ってほとんどなかった。わりと歴史って終戦まで学べばだいたいOKみたいな感じで「お勉強」してきたところがあるので、これじゃあ、中国に対してどういうスタンスで接すればいいかなんて判断できないよね。こういうのをもっと広く易しく学べる方法って、今の日本人にとって、必要なことだと思うのだけど。