私は鑑賞者として感激したのではない

GWに渋谷でやってた「海洋堂フィギュアワールド」でガチャガチャやったときの戦利品。これはいいものだ!

ちくま学芸文庫の「岡本太郎の宇宙」シリーズをちびちびと読み進める。刊行順でいくと、1対極と爆発→3伝統との対決→2太郎誕生になるんだけど、読み順としてもこれで正解かもしれない。「太郎誕生」はかなりマニアック。マニアックというのは、あまり「みんな」には受けないんだろうな、ということ。

童女童女のなかにいるか?

 岡本太郎と、母かの子、父一平の間で交わされる書簡たち。冒頭1/3くらいがこれだ。巴里を羨望するかの子、子を案ずる一平、芸術の世界に見を投じていく太郎。だけど、かの子の死が、書簡の流れを変える。

おかあさんという人は怖がりやで、痛がりやで、世に耐えないような神経と皮膚を持っていた癖に、一方異常に戦闘欲や征服欲の強いところがあった。向かって困難に出会いそこに生れる迫害や痛苦を心身に噛み〆て潜かに娯しとするような性情のところがあった。その娯しさは二晩も三晩も悶え抜いて阿鼻叫喚はするがそこにまたいおうようない生のスリルを感ずるという娯しさだ。

とか

自分では自分を子供に見られるのをひどく嫌ったが、結局おかあさんは純情な童女であることを貫いた。その童女型は却って子供の童女にはなくて――実際の子供の童女というものは狡くてこましゃくれて、概念的な嫌なところがあるものだ――娘から母になってまでを通じての大人のおかあさんにあった。

とか。どちらも母かの子が亡くなったときの父一平の手紙なんだけど、一平も太郎も、とにかくかの子絶賛、信仰、崇拝のレベル。これはすごい。確かにここから岡本太郎が芽生えてきたのだ、とわかる。困難に敢えて立ち向かっていくスタンスは岡本太郎がよく語っていたことだし。
 童女の型が子供にはないというのは、その通りだと思う。ものごとと対峙するときの無邪気さ、意思決定するときの素直さ、不要なものを持たず純粋なもので輝いているような、あの「型」はたぶん妄想か空想のなかにしかないから、それは後天的なものでしかあり得ない。ある種の悟りみたいな感じで、現実にぶつかった後でしか手に入れられないものなのかな、と思う。
 しかもそれは、男性が手に入れるのはかなり難しくって、ジェンダーっぽい話になっちゃうけど、やっぱり社会のなかで(=異なる利害を持つ人たちの間で利害をうまく調整しながら)生きていきましょう、という圧力がかかりがち。
 精神的ロリコンというか、複雑で高い圧力がかかる社会で生きる男性ほど、この童女に惹かれるんではないかなあ。あれ、なんで俺こんなところで戦ってたんだろう、ってハッとする瞬間を、ある種の「救い」として求めているような。自己紹介乙ですね。

私は鑑賞者として感激したのではない


 「夜」のモチーフも母であるとかそうでないとか。絶望的な存在に対峙する女性が、しかもナイフを背に隠し持っているというのが、対峙の決意を感じさせる。大好きな絵なんだよね。
 どこが好きなのか(what)を説明するのはそれほど難しくないんだけども、どういうふうに好きなのか(how)を言語化するのはわりと難しいことだと思っている。「感じるままに感じろ」というスタンスはあまり好きではない。万人向けではないのだ。子供の頃から芸術に対する感度が結構高くて、刺激もそれなりに受けてきている人間でなければ、「感じるままに感じる」ことは難しい。
 僕のように岡本太郎に文章から入ったような人間は、ああ、なるほど、こうやって観るのか、とラーニングしてから、個人の文脈をヤドリギのように伸ばしていって、エアープランツのように株分けする、そういうような、「受けてとしての器」を成長させていく、ことを漫然と思い描いている。そこには独自の文脈も生まれるかもしれない。
 話を戻すと、どういうふうに鑑賞するか、については、岡本太郎セザンヌの絵を見て泪を流したところのくだりが、理想的なものと思う。

だがそれは泣けるという気分とは遠いものであった。(中略)私は鑑賞者として感激したのではない。創る者として、揺り動かしてくる強い時代的共感に打たれたのであった。言い換えれば、作品の完成された美に打たれたのではない。創作者の動的な世界観に、私の意志が強烈に揺さぶられたのだ。これがあたかも自分自身の魂の所産のように感じられたからだ。

消費者的でなく、創作者として向き合うべきだ、というのは、もう3年も前にエドガー・エンデの言葉を追ってからというもの、強化してきた姿勢であるつもりだけれど、これはなかなかに難しく、消費者的な視点への堕落が、いつもぽっかりと口を開けて待っている。
 たぶん社会全体は、消費者を全肯定する空気から、創作者を肯定する向きがある。徐々に創作者的なスタンスを保ちやすい環境にシフトしているし、これからもそうなっていくのはほぼ確実。けど、ほんとうに気づかない(気づけない?)人は気づかないし、そりゃあ先進国だけでしょっていうのもその通りだと思う。なにより、精神の摩耗は消費者的な態度とすごく結びつきやすい。そういうのをうまく乗り越えていくためには、ビビッドで強烈なものとの接触はやっぱり大切だな、と思う。