秩序をひっくり返す装置として

カイエ・ソバージュも少しづつ読んでいくつもり。ほんとは1から読まないと、神話の定義があいまいなまま読み進めちゃうことになるわけだ。2ほどのインパクトはないけど、本来必要なステップだろう。

人類最古の哲学 カイエ・ソバージュ(1) (講談社選書メチエ)

人類最古の哲学 カイエ・ソバージュ(1) (講談社選書メチエ)

ピタゴラスがソラマメを嫌う理由

 ピタゴラスさん。あのピタゴラスの定理の。世界は数を基本としてつくられている、と考えていた人だ。彼はソラマメを食べることを禁じたらしい。僕のイメージの中では、神秘主義ピタゴラスは、「やっぱりこれも黄金比で説明がつくな!数は素晴らしい!」って言ってるちょっとやばいキャラなので、割り切れない事柄は遠ざけたいんだろうなーというところまでは予想がつく。が、マメ?
 そのミッシングリンクは神話にある。マメはなにの象徴か、というところから話が始まる。レヴィ=ストロースの大好きな二項対立でいくと、トウモロコシとマメは神話のなかでは、男性と女性をあらわすのだという。まあ、そうだろう。マメが女性のなかでは男性的な部分だ、ということも、まあそうかもしれない。
 一方、神話のなかで、マメは睾丸を指すことも多い。生産的な活動を行なう部位だし、形状としても丸みを帯びているから、男性のなかでは女性的な部位と言えるだろう。
 そうなると、マメは女性のなかでは男性的な部位だし、男性のなかでは女性的な部位だと言える。こういうところから、マメは神話のなかで、男性と女性を媒介する働きを持つものだ、ということになる。
 ほかにもいくつかのパターンで、マメは「対立する2つのものを媒介するもの」という解釈される。例えば生と死。節分で鬼(=死)を退散させ、福を呼び込むことができる、などというのも、マメならではだ、というお話。
 とまあ、この辺まで読んで、中沢せんせー今日もゼッコウチョーですねーと茶々を入れたくなってしまうわけですが、楽しいので何も問題ない。
 ピタゴラスがマメを嫌うのは、そういう世界の対立物を媒介してしまう/入れ替えてしまう、からだ、ということ。ピタゴラスにとって、世界は秩序だったものであって、男性が女性に転化してはならないし、死んでいるものが生き返ってはいけないし、人間が動物にすりかわったりしてはいけないのだ。

葬られた思考方法論

 これはよーするに、ピタゴラスさんが生きていたころには、そういう考え方、つまり、男性が女性に転化したり、死んでいるものが生き返ったり、人間が動物にすりかわったりする、ということは「起きるかもしれないことだった」し、そういうふうに考える方法がドミナントであったということでもある。
 で、この思考の方法論が「神話」だと中沢せんせーは言っているのですね。一般的に、神話って言ったら、神様が世界をつくって、世界はこういうふうにできたんですよー、とか、英雄が怪物を退治したりして、こんなすごい歴史があったんですよーとか教えてくれるものだ。Wikipediaには、神話と昔話の違いを説いて曰く、

昔話は異なる時と場所で何度か起こった出来事の典型を表す話であり、真実を表現したものではないか、もしくは神聖な物語ではないものと認識される。例えば『桃太郎』も、鬼退治はどこででも起こりうる争乱の数ある一つと捉えることが出来るため、神話とも伝説とも異なる性格を持つ

ということで、神話はこの世界で一度しか起こっていないことだ。そういう意味で「歴史」に近い性格を持つらしい。
 だから、中沢せんせーの言う「神話」は、一般的な意味での神話じゃないっぽいんだよね。対立する項目を、つなげて、ひっくり返す思考方法論。それを取り入れた物語。こういうのを「神話」と呼んでいる。ふつうシンデレラを「神話」とは言わないけど、世界中のシンデレラを取り扱っているのは、そういう神話的性格がすごく強いからだ。
 こうした思考方法論というのは、ピタゴラスがソラマメを嫌うように、秩序だった世界を望む流れによって葬られてしまった。この辺は「熊から王へ」を既読なので、すんなり理解できる。

現代の神話はあり得るのだろうか?

 そういうふうに神話を定義するのであれば、「神話」という思考方法、死んだものが生き返ったり、人間が動物になったりするという考え方は滅びていないんじゃないか?という見方もできる。神話は、秩序だった世界、熊から王へと進む人間社会のなかで葬られてしまいました、ということでなく、やっぱりかたちを変えて生き続けているのではないかと思う。
 それは例えば、一般人がアイドルにデビューすることで世界が変わることだったり(「芸能界」は価値観をひっくり返す装置だろう)、アニメのなかのビジュアルにおいて神話が再現されることだったりする。
 ただ、「現代の神話」と「そもそもの神話」が異なるのは、それが生活と連携持ってますか?というところなんだろうと思う。つまり、神話は生活に必要なものなのか?と言われたら、過去の人はYESと答えるのだろうけど、現代の人間としては、究極的にはNOと答えざるを得ないわけで、人が、より「パンのみで生きる」ようになってしまったのかなあ。

カイエ・ソバージュ読後記録
カイエ・ソバージュ(1/5):秩序ををひっくり返す装置として
カイエ・ソバージュ(2/5):伴読部第3回『熊から王へ』
カイエ・ソバージュ(3/5):『愛と経済のロゴス』はだいたい贈与論
カイエ・ソバージュ(4/5):スピリットから神が生まれる?
カイエ・ソバージュ(5/5):対称性の復活