日本の最深部へ

岡本太郎の宇宙」シリーズの4冊目。沖縄、恐山、熊野、出羽三山岡本太郎が「日本」と対峙する文章が集められている。文庫としては『沖縄文化論』が別に出ているが、あれがまるまる収録されているのかと思う。

ウタキのこと

 数年前、竹富島に行った時のことを思い出す。当時は民俗学に興味なんてなくて、南の島のそこかしこに潜む生き物の姿を、目が勝手に追いかけていた。それでも島のところどころに不自然な空間があるのは覚えている。周囲が木々で覆われているのに、そこだけぽっかりと開けていたり、大きな岩が置かれていたり、たまに鳥居があることもあった。
 空間には、そこでなにかを行なうという機能的な役割だけでなく、その空間を満たしたい、という発想を刺激する。その空間になにかが「降りてくる」とか、そういうイマジネーションをもたらすということだ。
 だから、祭事の場は、スペースの空いた空間であることが一般的だ。竹富島のその空間が、島の祭事場である御嶽(ウタキ)だということは、実はこの本で初めて知った。正確に言えば、情報としてのインプットはあったのだろうが、意味のある情報として頭のなかで結びついたのは今回が初めてである。頭のなかが空っぽのほうが夢は詰め込めるのだろうが、それを深化させ、厚みを持たせるのは、やはり思考と文脈であると思う。

シュルレアリスムから日本の伝統へ

 岡本太郎が、「日本の伝統」と考えているのは、美術品や伝統工芸品じゃなくて、だいたいは祭事、宗教行事だ。どういうものに「伝統としての価値」を見出していたのかのヒントがある。
 そもそも岡本太郎がマルセス・モースに師事して民俗学をやっていたのか、というのは単なる興味だったと思っていたが、思想のつながりが見えてきた。僕はあまり美術のことはわからないんで、変なことは言えないんだけれども、シュルレアリスムの根底にある思想っていうのは、「個人の意識よりも、集団の意識を表現しましょう」なんじゃないかと思っている。
 これって、西洋が着々と積み上げてきた「他人は他人、私は私」の考え方の反動で、「共有される意識みたいなものってあるよね」っていう思想なんだろう。こういう考え方は西洋化されていない社会ではまだ見られたから、文化人類学民俗学シュルレアリスムと結びつきやすかったんだと、ようやくわかってきた。そうすると、祭事なんていうのはまさに意識の共有だから、彼の求めるものとピッタリなんだろう。

永らえているから文化なのではない

 その文章が常に批判的なのは、日本文化の語り口としては珍しい。だいたい、文化を語る時、僕らはそういったものに「敬意を払って」なにやらよくわかっていなくても、素晴らしいものだ、などと語ってしまいたくなる。
 魂ごとぶつかっていない、と岡本太郎なら言うだろう。歴史のある素晴らしいものだ、という格調付けに同調しているのは、敬意を払っているのではなく、空気を呼んでいるだけだし、なにやらよくわかっていないのなら、なぜわかろうとしないのか、ということだ。
 なにに価値を見出すのか?ということが定まっていないのだから、そうなるのも無理はない。やってしまいがちな態度は、「価値がある(と言われている)から価値があるのだ」というもので、そんな態度にはなんの意味もない。岡本太郎には「どんなものに価値があるのか?」について、決まった答えがあった。

堅牢だとか、永らえることに価値があるだなんて、考えもしない。この世界では物として残ることが永遠ではない。その日その日、その時その時を、平気で、そのまま生きている。風にたえ、飢えにたえ、滅びるときは滅びるままに。生きつぎ生きながらえる、その生命の流れのようなものが永劫なのだ。

 それは、儚いと感じる無常観ではなくて、自然体で存在しようとする姿勢への賛辞であり、敬意である。伝統は保護されるものではなくて、新しい時代を切り開くべきものである。そうでないものは、あくまでも、その時代の伝統であって、次の100年の伝統ではあり得ないのだ、と。