SFの定義は世界フリーク、だと思う

 SFの定義は世界フリーク(Sekai Freak)、だと思う。サイエンス・フィクションとか、すこし・ふしぎ、とか、まあ色々な定義があるけども、やっぱり僕にとってのSFは、世界の原理のようなものを変えてみて、そこでどんなことが起こるか観察するという箱庭観察であって、世界レベルでのシミュレーションである。いつか「SFは世界設定で物語るべきだ」とも書いたことがあるが、誰がなにをした、という物語よりも、こういう設定にしたところ、登場人物はこのように振舞うことになった、という文脈であるべきなのだ。そういう意味でSFには、色々な世界を鑑賞し、にやにや眺めているマニア、フリーク的なところがある。だから、必ずしもワープ航法が可能な宇宙船だとか、人間に近接するAIだとか、そういうものは必ずしも必要ない。世界を語るのであれば、現実には存在しないルールを立ててみてシミュレーションすることも、やはりSFである。

都市と都市 (ハヤカワ文庫SF)

都市と都市 (ハヤカワ文庫SF)

 複雑に隣接する都市国家べジェルとウル・コーマ。それぞれの都市で暮らす人々には共通のルールがある。隣国は存在しない、ように振舞わなければならない。人々はそのように教育される。見ないように、聞かないように、意識しないように。べジェルの人は境界の向こう側にあるウル・コーマの人々を見てはいけない。同じく、ウル・コーマの人々はすぐ隣にあるべジェルの建物を見てはいけない。
 存在しないように振る舞う必要があるのだ。違反することは「ブリーチ」と呼ばれ、やはり「ブリーチ」と呼ばれる規制集団がどこからともなく現れるのだ。「ブリーチ!ブリーチ!」と叫びながら視界の狭間から糾弾のために現れる人々は、見たことがないのに、鮮明にイメージすることができる。
 あり得ないって?そうだろうか?それを言ったら、国という仕組み、国境というルールも十分ふしぎではないか。パスポートという証書がなければ見えている一歩先にも入ることの許されない現実世界は正常だろうか。土地を所有するという概念は正常だろうか。ネイティブ・アメリカンはヨーロッパ人が言う「この土地はわれわれのものだ」という言葉を理解できなかったという。国籍、国境、土地の所有。そうした概念を理解できるなら、隣国が存在しないように振舞わなければならない、という概念も、もうすぐそこまで来ている。
 もちろん、この思考実験は、国を解体しようという意見ではないし、世界人を目指すべきというメッセージでもない。作者もそれを望んでいないようだ。ただ、そうした状況をイメージできない人間こそ、歪なルールを内面化するだろう。それは自然なことだ、と思う。
 「都市」というものがある種の共同幻想だ、というのは言われてみればその通りである。都市は認識されて初めて成立する、ということ。複数の人間に認識されなければそれは都市ではない。都市は、都市であるという認識によって成立している。
 例えば東京の人間にとって、都市とはなんだろう。東京と有楽町はほとんど同じ「都市」だ。だが、有楽町に行くとき、「有楽町駅で降りなければ、有楽町に辿りつけない」と考えている人にとって、東京と有楽町は完全に別の都市なのかもしれない。東京では、駅があまりにも強力な磁場を持っている。
 どこまでが都市Aで、どこからが都市Bなのか。その境界は行政区ではないかもしれない。都市は、多くの人が区切られた生活空間と認識しているものの集合でしかない。景観や人の視線、人の流れが「都市」をかたちづくっている。逆もできるだろう?というのが本書だ。景観と人の視線をコントロールすれば、都市を分断できるのだ。警察小説という体裁を取るが、結末がどう、というより、圧倒的な強度を持つシミュレーションに、ただただ驚くばかりである。