凄いものを見て、凄いと感じられること

ヴォイド・シェイパ」読みました。文庫版の表紙が綺麗だったので、うっかり買ってしまった。森先生、あいかわらず凄さを垣間見せる手法がめちゃくちゃうまいなー、と思う。S&Mシリーズとかの萌絵→犀川先生、犀川先生→四季の視点でもう確立されていて、まあ今更ではあるんだけれども、これを文脈で表現する小説ってなかなかないんだよね。

凄いものを見た。
自分は幸運だった。
あれを見られたことは。
ああいったものが存在するということを知るだけで、これまでの自分とは既にまったく違う。別の者になれただろう。そんな手応えがある。

 こういうタイプのモチベーションって知っている人と知らない人ではすでに質的な違いがある。そもそもまずこの段階に至るには、それなりのレベルに至らないといけない。凄いものは誰が見ても凄いっていうのは、違う。同じものを見ても、それに気づける人とそうでない人がいて、その違いは、「それを凄いと思うレベルに達しているか」ということと「そのことについての切実な問いを持っているか」ということなんだと思う。
 だから、「凄いものを凄いと感じられる普遍的な能力」みたいなものがあるわけじゃなくて、僕はこれをそれなりに高めていて、こういう問題意識を持っているから、凄いと感じられる、というのが正しい。
 で、ああ凄いな、あんなに高い場所があるんだな、と気づくことは最強の動機づけになると思っている。例えば、「競争」とか「成果主義」とか、そういうものが、なんともちっぽけなものに思えるくらい。それは目の前が突然拓ける感覚で、むしろ宗教体験のようなものに近いのではないか。
 自分の人生を振り返ってみれば、研究ではそれに出会うことができた。仕事ではまだそのステージではない。刃を研いでいる段階だ。たまに時々、凄くなんかないと思っていた人に、ある種の凄さを再発見する時があって、いくらでも目指すべきものはある、と思う。
 でも、こういう気付きっていうのは、本当は子どもの頃にみんな経験しているはずで、それがなければ、こんなにも多くのことを学べなかったはずだろう。
 それが大人になると難しくなるっていうのは生物としての限界であると思うんだけど、逆にその気づきを自分で生み出せるようにすることができるのは、人間にしかできないことなんだろうなあ。