ジグβは神ですか

ジグβは神ですか」(森博嗣)読みました。作中の時間で言うと、前回から3年は空いたようだけど、ノリは相変わらず。ついにノベルス版に手を出してしまった……

ジグβは神ですか (講談社ノベルス)

ジグβは神ですか (講談社ノベルス)

人間をジグにしようとしている?

 ジグβは神ですか、というタイトルだけど、これは、ジグ(型、人形、うつわ)は神(真賀田四季そのもの)をつくりだすことができるか?ということでしょうね。
 「ジグ」は工作物を固定しておいて、そこで切ったり焼いたり溶接したりするわけだけれども、これがあるとかんたんに大量生産でまっせ、という装置。
 四季アンドロイドを「工作物」とするなら、その完成形は四季そのものにほかならない。そうしたら、この場合のジグは、何になるだろう。投げ捨てられたPCに入っていたソフトウェア?棺に収まっていた人形?いや、それを作ろうとしていた芸術家自身か。
 人間をジグにして、四季アンドロイドを作ろうとしているのか。人間を四季のコピーに作り換えることで、ジグとしている。そうであれば、次のステップでは、四季の模倣者みたいな人間がたくさん現れるのかもしれない。そのなかで最も優れたコピーが、ジグver.1.00になる。お、そうするとジグβというのはジグのβ版という意味になって、それらしい。まあ、「どちらにせよ、問題はない」ですが。

森ミステリのパワーバランスを支配するのは、常にこの感覚だ

そういうものを言葉にして他者に伝達しても、そんな情報に価値はない、ということを彼は言いたいのだろう。加部谷にはそれがよくわかっている。何度も、彼からそれを聞いたからだ。彼のことを理解しているつもりだった。しかし、この人が考えたというだけで、それを受け入れる価値が生じることだってあるのだ。自分にとって、それは間違いなく価値がある。どうやって、そのことを論証すれば良いだろう。

 これですよね。大前提として、その情報に価値があるか否かっていうのは、その発信者が誰かっていうこととは、まったく別だ、という考え方があるわけで、「明日台風が来る」という情報は、新聞に書いてあろうが、お天気お姉さんが言おうが、ちょっと気になっているあの子が言おうが、額面通りの意味としては同じ価値のはずだ。もちろん、信憑性が同じと仮定してだけど。
 それにも関わらず、「この人が考えたというだけで、それを受け入れる価値が生じる」ということがある、と言っているのだ。それは感情の言葉だけを想定しているのではない。その人物の思考そのものに価値を見出しているのだ。
 森ミステリのキャラクター間の愛情、敬愛、尊敬、もっと言えばパワーバランスは、この感覚に支えられている。加部谷が海月を見るまなざし、萌絵が犀川をどう見ていたか、犀川が四季を見ていたように。Gシリーズの被害者、加害者はこのパワーバランスに飲み込まれていることが多い。本作でも、隅吉父は「生贄を捧げた」ようだし、隅吉娘も傾倒していた、と言えるだろう。
 こうした姿勢は恋愛と相性がいい(「なんてあの人は素敵なの」)し、ミステリとも相性がいい(「なんと素晴らしい推理だろうか」)。この感覚を、最も美しいもの、最も強力なモチベーションとして、ストーリーが組まれている。シリーズを越えても、コアは変わらないものだなあ。