環境問題を考えるときに、

昨日の続き。
科学を戦略的に用いた生態系の保護

新種を発見することによって、その地域の自然に一時的に高い学術的価値を「持たせ」て、環境保全の主張を強められるわけだ。

って書いたけど、この考え方には致命的な問題が1つある。
結論に見合った証拠を選択的に集めているのではないか?ということ。
 僕は大学生活の半分くらいをいわゆる環境活動に費やしてきたけど、特に環境活動に取り組む大学生は「はじめに結論ありき」であることが多かった。気候変動を例にとろう。彼らは、「人間活動の影響で二酸化濃度が上昇し、温暖化が促進されている」というストーリーを疑わない。(この件に対して僕がどう考えているかは、今は重要じゃないのでスルー)彼らの多くは、そのストーリーに対する反論があることを知ってはいるし、具体的にどういう反論があるかも分かっているが、彼らのストーリーを疑うことはない。彼らは、そのストーリーに合った証拠を集めるだけだ。

 地域の自然の話に戻ると、生物調査のほとんど入っていないような地域を調査すれば、新種が出てくるのは当然なわけで。(調査がいけないと言っているわけではない。むしろ良い)さらに、その地域にある問題は環境問題だけではないだろう。

 環境保全に有利な証拠のみを集めて、「環境を保全すべき」と主張するのは問題。できる限り中立的な視点から、できる限り重要性が高いと考えられる情報を、できる限り広範囲に用意すること。もちろん、真に中立的な立場なんて存在しないし、重要性の決定にはどうしたって主観が入るし、広範囲って言っても無限に調査することはできない。どこに線を引くか、というのがいつも問題となる。