「教える」って結局どういうことなんだろうか?

昨日で家庭教師の最後の指導が終わった。[,right,h250,w200]最後の生徒は、2年近く指導を続けていた高校生。

 彼はよく、「こんなことができてなんの意味があるのかー」と言っていた。口癖と言ってもいいくらいだ。冗談ぽく言っていたけど、それは彼の本音だ。成績のため、受験のために勉強が必要なことは分かるし、それが期待されていることは理解できるけど、生きていく上ではプラスになるとはとても思えない、ということだ。そして、彼にとって勉強は決して楽しいことではない。


 結論から言えば、勉強に限らず、なにかをやることの「意味」は自分で見つけなければ、意味のあるものとして理解することはできない。しかし、これを彼に伝えることは困難だった。僕はまず、彼が「なんの意味があるのか」というたびに、毎回違う意見を言ってみることにした。僕らの生活が色々な技術の上に成り立っていること、社会に出て仕事をするとき「勉強」というツールが必ず役に立つこと、勉強は「考え方」を強化するトレーニングであること、などなど。

 彼の対応は大きく分けて3パターンだった。1、僕の言っていることは正しいと考えるが、自分が勉強をする理由として納得はできない。2、僕の言っていることが正しくないと考えて、反論する。3、僕の説明が下手なために十分に理解できない。

 素直に受け入れてくれたことはない。そして、反論されることもほとんどなかった。彼が「なんの意味があるのか」と言うときの8割は「この問題めんどくさいから解きたくないよ」という意味だからだ。

 それでも、徐々に反論される頻度が増えてきた。彼は、自身の考え方を組み立て、僕の意見に反論した。ベクトルの問題を解いている時よりも、はるかに真剣に。そうか、「教える」とはこういうことだったのか。僕は彼になにも与えなかったのだ。彼が、自ら獲得していったのだ。僕ができたことといえば、彼がなにかを獲得できるような環境を週2時間設けてあげたことと、僕自身がなにかを獲得したことだけだ。

 「教える」って結局どういうことだったんだろうか?