「楽」と「楽しい」

 どうして同じ「楽」という文字を使うのだろうか?
 僕のなかでは、楽なことはあまり楽しくない。例えば、テレビをぼーっとっ見ているのは楽なのだけど、それほど楽しくはない。もちろん、ある程度までは楽しいのだが、かなり物足りなさを感じる。これに対し、例えばブログを書くのは楽しいが、あまり楽ではない。昨日は疲れていたので、楽を優先した結果、更新できなかった。
 楽しいことができるのは、身体的にも精神的にもよいコンディションのときだけだ。このどちらかの条件が満たされていないと、楽しいことはできない。なぜだろうか?
 楽しいことは、たいてい能動的だ。もちろん受動的なことも楽しいが、それは限定された楽しさだ。なんとなくつけたテレビをただ漫然と見るだけ。本の文字を目で追うだけの読書。こういった消費的で受動的なスタイルは、非常に楽だ。ゆえに、楽しさが限定される。
 逆に言えば、対象はそれほど重要ではないということ。テレビに批判的な文章になってしまったけど、テレビだって本気で見ようと思えば、かなり骨のいる作業だ。オープニングの作画がわずかに変わっただけで指摘してくるアニメ好きの人たちのことは、素直にすごいなーと思う。あれはたぶん、ちょっと違和感を感じたら、何回も見返したり、一時停止を繰り返したりするのだろう。
 コンディションが優れないときには、能動的なレベルの「楽しさ」はあきらめて、「楽」に流れるしかない。あるいは、そのぐらいなら眠ってしまう、とか。
 こんな感じで、僕のなかでは「楽」と「楽しい」は相当違うものであって、むしろ両立し得ない感じでさえある。結局、冒頭の疑問に対する仮説が立てられなかったな……。まあ、そろそろ、「楽」の文字がゲシュタルト崩壊してきたので、この辺で。