河川堤防学
「河川堤防学」(吉川勝秀ほか)読了。
なぜ今「堤防」なのか?
- 作者: 吉川勝秀,白井勝二,瀬川明久,福成孝三,長瀬迪夫
- 出版社/メーカー: 技報堂出版
- 発売日: 2008/05/01
- メディア: 単行本
- クリック: 1回
- この商品を含むブログ (2件) を見る
目次
第1章 日本の国土の発展と治水
第2章 河川堤防の歴史的な考察
第3章 実際の河川堤防とその破壊
第4章 堤防決壊の原因と堤防の設計・補強論―横断構造としての堤防論
第5章 治水システムとしての河川堤防論―河川縦断、システムとしての堤防論
第6章 これからの時代の堤防管理論
書名は前から目にしていたのだけれど、なぜ「河川堤防学」が「新しい河川工学」なのかが理解できなかった*1。「堤防」なんて、昔からあっただろう?自然堤防に至っては、人間が造ったものですらない。そう、思っていた。
今なら、わかる。「堤防」は「ダム」の代替案なのである。これは、文字通りの意味でもそうなのだが、思想的なニュアンスも含む。
治水ハードの核
まずは、文字通りの意味から。大熊孝は『水害防備林やその他の堤防強化によって「大洪水が来て堤防を越流しても、破堤しない堤防によって水害を最小化する」という考え方は、一九年たっても変わっておらず、今でもそれが究極の治水であると考えている』と述べていて、ダムの代替案の核となるのは堤防であることを主張している。
確かに、技術的な側面から考えて、ダムを廃止したら、それに代わるようなものは堤防くらいしか思いつかない。遊水地や放水路などもあるが、地形的・社会的な問題を考えれば、全国どこでも適用できるものではない*2。
全国的に適用できて*3、環境や社会へのダメージが小さく、ハード面の治水の核となるものと言えば、これはもう堤防しかない。
点から線へ
本書では、「点から線へ」という考えが繰り返し主張される.エンジニアに向けて言っているのだろうが、堤防横断という「点」で治水を考えてはダメで、河川縦断という「線」の治水を考えなければならない、ということである。
鎖が一番弱い輪で切れるように、堤防も最も弱い場所で破壊するからだ。この概念はほとんどすべてのものに当てはまる。人間心理にも応用できるかもしれない。
脱線。話を戻すと、ダムも「点の治水」であったと言える。流量を1点で管理するわけだから。「線の治水」とは、極論すれば、どこで堤防越水が起きるかを予め決めておくような管理方法だということになる。
人と治水との距離
ダムは、ローカルな技術ではない。都市住民にとって、ダムというのは山奥で環境とか破壊している、なんかよく分からない存在なわけだ。
そういう「遠くにあって私たちを支えてくれるなにか」の存在をアピールするというのは、例えば環境問題では主流な考えだし、地味だけど必要なものの大切さを伝えるための正攻法である。しかし、そもそも「遠くにある」こと自体がおかしいんじゃないか?という疑問をぶつけてみる必要はあるかもしれない。
それなら、もう一度、治水を都市の近くまでより戻してみる、というのは、例えば「ふれあい館」的なものをつくるより、ずっと根本的な対策であるかもしれない*4。
それを、できる限り安全にやってのける。人間社会に深刻なダメージを与えずに、人と治水との距離を縮めていく。そういう無理難題をこなす際に、「堤防」という半自然的なハードが必要だ。
堤防は、それ単体で洪水から人々を守りきれないが、そうであればこそ、人と治水の断絶を回復するなら、その中心となるハードは、堤防をおいて他にない。