江戸の川 復活

「江戸の川 復活」(渡部一二)読了。
都市河川は橋脚をたてるための空間なのだろうか?

目次
第一部
第一章 「絵図」に表現された江戸の水辺空間を訪ねる
第二章 日本橋川・江戸の面影をみつける
第三章 日本橋川・名橋の案内
第二部
第一章 魅力ある「江戸の川」の復活―「体感型野外博物館構想」とは?
第二章 今ものこる江戸時代の面影―「体感型野外博物館構想」実現の可能性
第三章 「江戸の川・復活」構想の実現に向けて―「体感型野外博物館構想」
あとがき

 最近、都市河川巡りをしている、という話をした。わざわざ都市河川に注目して見に行くわけだから、それなりの問題意識がある。
 しかし当然、そこに問題意識を見出さない人間もいるわけだ。以前の指導教官と「開発の歴史」について話す機会があり、そこで「日本橋の上に高速道路が架かっている」話をしたのだが、「なにが問題かわからない」ということであった。
 一方、著者は都市河川の景観的・文化的問題にいち早く気づき、復活の構想を練った。そのきっかけは、江戸時代の「絵図」にあった。絵図と地図を駆使し、当時の川の様子を再現するのである。
 とりわけ、著者がお気に入りなのが「日本橋川」である。絵が描かれた場所をプロットしたり、富士山の見える方向を考慮したりして、当時の「おもかげ」を再現するあたりはとても面白い。お花見の季節は終わってしまったけど、この本を持って日本橋川を歩くのもいいかもしれない。
 さて、具体的な復元手法について。著者の案は、都市河川そのものを「博物館」として、「見せる」かたちで文化的な空間を復元しようというものである。
 ただ、構想自体はありふれたもののようにも思う。もう少し若ければ、携帯オーディオを取り入れたり、セカイカメラ的なものも視野に入っていたことだろう。
 さらに言うと、川を「追体験するための空間」として固定してしまうということは、河川を時の流れから切り離すようなものだとも思う。つまり、今の時代の人間が、今の河川と新しい関係を築けないということではないか、ということ。まあ、橋脚建てるだけのスペースとしてよりはマシだけど。その辺は、僕らの世代の課題ということで。
 ……などと偉そうに反論してみたが、著者と僕との間には、大きな壁がある。問題に気づいた人間と、そうでない人間の差である。
 誰もそういった問題を認識しないなか、その問題に気づいた人が存在することが、僕らのような追従者には大きな意味を持っている。だって、僕らも50年早く生まれていたら、気づけていなかったと思うから。いつ生まれても思想がそれほど変わらないと思い込むのは容易いが、それはたぶん違う。日々考えていることは、思っているほど時代の流れから自由ではない。