伴読部 第2回 『埋葬』

「埋葬」(横田創)読了。
傲慢にも埋葬できるほど、あの人を大切に思えるだろうか?

埋葬 (想像力の文学)

埋葬 (想像力の文学)

 「産んでくれと言った覚えはない」と言ったことがある。母に向かってだ。これが実名ブログだとなかなかこんなことも書けないんだけど、まあ、ほぼ匿名だし、書いてしまおう。
 中学生の頃だったような、母と口論になった自分は流れこそ忘れたものの、そのコトバが口をついて出た。母も大したもので、宗教こそ信仰していないが、オリジナルの信仰をしっかりと持っていて、「いや、あなたは私を選んで生まれてきたの」と真顔で言う*1。信じられなかった。そんな訳ないだろう。俺とおまえは偶然に親子になっただけなんであって、望んだわけではない。
 どこまで行っても他者は他者なのだ、という主張をするのが「間違って」いたことに気がつくのは、もう少し先のことだ。他者に影響されて、自分がある。他者との関係のなかに自分がある、と気づいてから、ようやく、である。

 僕が読んだ『埋葬』は、そういう他者との関係のうち、どこまでが自分なんだろうかっていう話だった。女性と子どもを殺害した少年に死刑判決が下る。しかし、女性の夫が書いた手記にはまったく別の真相が描かれている。彼は妻を埋葬できなかった。「妻と娘を埋める前に夜が明けてしまった」のだ。

他人のためになにかを言うということは、他人をわたしにすることである。その全責任を、みずからの意志で、まるでわたし自身のことであるかのようにすすんで負わされることである。よほどの覚悟がなければ、強い意志がなければ為せないことだし、為してはならないことである。

そのように本田(夫)は考える。自ら責任を負うこともなく、他人に影響を与える。その傲慢さが許せないのである。すごーく、よくわかる。ふだん生活しているなかでは埋没している部分であるが、人との関わりの根底にある、基礎のようなものなので、真剣に人と関わると、すぐに剥き出しになる、あの部分のことだ。人に影響を与えるとき、人とコミュニケーションを取るとき、必ず、それの影響を受ける。

 真剣に人と関わるとき、ということで言うと最もわかりやすいのが、自身の恋愛遍歴を語ることだが……やめておこう。まだ、十分に消化できる状態にはないみたいだ。別の例を。

 よく考えたら、この伴読部だってそうだ。僕は赤亀さんに誘って頂いたのだが、なんと勇気のある行動だろうか、と思う。僕だって読みたい本があるんだ、その時間を削ってまで、なんで人が選んだ本を、しかもそれほど余裕があるわけじゃないお金を削ってまで買って読んで、挙句の果てはレビューまで書かないといけないなんて!なんて傲慢な!……と思われるかもしれないのに*2、それでも、誘って頂いた。喜ばしい限りである。まあ、そんなことを思ってはいないのかもしれないですが。

 だが、本田は死ぬことができなかった。「あなたを誘わないで死ぬのはやめようと思った」そう言って、妻が、「よほどの覚悟」を持って、「他人をわたしに」しようとしてくれた人がいたのに。なぜ?その答えは本作を読むとだいたいわかる。

 本田がそういう考えから、他人に影響を与えることができないのと対極の存在として、少年は登場する。少年にとっては、他人は自分なのだ。他者に影響されて自分がある、というスタート地点はまったく同じなのに、結論は真逆になる。本田はこう考える。他者に影響されて自分がある。だから、できるだけ他人に影響を与えずに生きよう、と。少年はこう考える。他者に影響されて自分がある。だから、どんな影響を与えても良いのだ、と。本田がつけられなかった娘の名前を、少年がいとも簡単につけてみせたことは、象徴的である。

 たぶん、現実には中間をとるのだ。しかし、そのつまみをどれくらい回すのが適当なのだろう。わからない。こまけぇこたぁいいんだよ!!と言えるほど肝が座っているわけではないし、かと言って、埋葬の登場人物になれるほど感性が研ぎ澄まされているわけでもない。

 最後のページを閉じて、一呼吸。コミュニケーションの難しさに絶望する。他人に影響を与えるべきではない。いや、他人も自分だ。そう主張しあう人たちの物語を追体験し、まあバランスをとっていくのが大事だよね、なんて、したり顔で言えるほど、他人ごとではないのだ。

・赤亀さん:http://d.hatena.ne.jp/chigui/20120219/1329654458
・なむさん:http://d.hatena.ne.jp/numberock/20120219/1329658205

*1:ここら辺が母がすごい理由でもあり。絶対に根底の意見は相容れないけど、姿勢は尊敬しているのです。

*2:ごめんなさいごめんなさい、そんなことコレッポッチも思ってないですよ、いつも大変お世話になっておりますです、大変恐悦至極の至る所山の如しです。