伴読部 第3回『熊から王へ』

「熊から王へ」(中沢新一)読了。
原初、熊は神であった。

熊から王へ カイエ・ソバージュ(2) (講談社選書メチエ)

熊から王へ カイエ・ソバージュ(2) (講談社選書メチエ)

 東北地方からカムチャッカ半島を渡り、アリューシャン諸島を越え、アラスカへ。環太平洋に散らばる神話から、「野蛮」と「文明」というストーリーを浮き上がらせる。熊から神性が失われ、その代わりに王が誕生してしまった、というふうに人類の歴史を捉えるというのは、なかなか大風呂敷。
 今回の伴読部は僕のセレクト回でした。本のオススメをされるのは得意なのですが、本をオススメするのはあまり得意ではなかったりして。けっきょく自分が読みたい本を選んだんじゃないのか?「どうしようかな」と思って青山ブックセンター六本木店。中二階へ上がって、少し奥まった棚には、文化と民俗コーナー(?)がある。レヴィ=ストロースに始まり、南方熊楠とか、宮沢賢治も好きなんだろうなーというような一角。前から気になっていた棚だ。そこから、ひときわ目を引く一冊の本を引きぬく。「熊から王へ」。良いタイトルである。パラパラと眺めたあと、ちょっとレスポンスに不満のあるINFOBARでアマゾン在庫を確認する。大丈夫そうだ。少なくとも2人分はある。その足で、レジへ向かった。きっと概要は皆さんがまとめてくれるので、
・赤亀さん:http://d.hatena.ne.jp/chigui/20120320/1332255303
・なむさん:http://d.hatena.ne.jp/numberock/20120320/1332259236
僕は、いつも通り思ったことをぼやいておこう。

もし宮崎駿が「熊から王へ」を読んだら

 もののけ姫になる。「現生人類は、人間と熊はおたがいに変容しあうこともできる「親族」であり「友人」なのだ、と思考しだしたのです」というスタンスは、まさにサンが「山犬の子」として育てられてきたのと一緒だし、本来社会のなかに存在しなかった「自然」の力をリーダーが取り込むことで「王」となった、というのはまさに、エボシがシシ神の首を手に入れようとしていたくだりと見事に一致する。まあ、ふつうは「もののけ姫」のほうが分かりやすいよね。

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埋葬と獣人

前回の伴読部「埋葬」の回では、こういうところをクリップした。

他人のためになにかを言うということは、他人をわたしにすることである。その全責任を、みずからの意志で、まるでわたし自身のことであるかのようにすすんで負わされることである。よほどの覚悟がなければ、強い意志がなければ為せないことだし、為してはならないことである。

自分と他人の境界が2人の登場人物で随分違う、という話だった。2人とも両極端に振れていて、どちらも現実世界ではしっくりこないんだけど、インディアン神話のレベルでは、人間と動物の境界さえあやふやになっている。いや、「なっている」というか「あえてそう定義している」というくらいのニュアンスが正しい。人間のなかの自然性、つまり「人間も生態系の一部なのだ」というアイデアをうまく伝えていくために、神話や民話のなかに、人間が動物に変化する話や動物と結婚する話が登場する。
 でも、そういうアイデアが必要だとわかるのは、環境収容力の拘束が厳しいっていうのが直感的にわかるからだ。逆に言えば、飢えで死ぬことがほとんどない社会では、「人間は半分動物だ」というようなアイデアはほとんどピンとこないことになる。
 そうすると、人間の輪郭は再定義を迫られることになるわけで、自己と他人の境界をどうしたらいいんだろう?みたいな埋葬の話にもつながるのかもしれない。そもそも、自分を「ひとつのまとまり」として捉えること自体が、神話時代には存在しない発想だったかもしれない。それはもしかすると、王の出現/自然権力の内部化と同じ頃に起きたことなのかも。

単純な疑問とか

 あと、ここは疑問なんだけど、王は「なんで」生まれたんだろうか?王の定義はわかった。シャーマン+人食い+戦士=王っていうのはわかったし、自然権力を内部化してしまったのが王というのもわかった。でも、じゃあなんで王は生まれたんだろう?
 だって、階層性は王成立の必要条件であって十分条件じゃないらしいし、環太平洋の人々は王が誕生しないように細心の注意を払っていたはずだ。それとも、なにか明確なトリガーがあったわけじゃなくて、王が一度発明(と言って良いのか?)されると、次々と伝播するor継承されるということだろうか?
 もしそうだとしたら、人間が富の蓄積を始めたときから、いずれ王が誕生することはほとんど決まっていたということになるなあ。それなら、いつか環太平洋でも、東北でも、王は誕生したはずではないの?ここだけはしっくりこなかった。

読む側の危うさ

 それにしても、である。中沢新一のまとまった文章は初めて読んだけど、これはとても怖いものだ。ある意味、「人食い」の属性を持っているかもしれない。

「人食い」は、具象的な形態をもっているものを呑み込んで破壊し、抽象的な流動体に変えてしまう働きをもったものを、表現しようとしたプリミティブな概念です。

時間スケール、空間スケールともに大きな話を、これだけ説得力のある語り方で見せる、というのがスゴい。スゴすぎて逆にまずい。あまり深く考えずに共感だけをすると、ほとんどマインドコントロールみたいな状態になっちゃうんじゃないか?中沢新一がオウムの黒幕ではないか、とか取り沙汰されたのも、なんとなくわかる。
 たぶんそれは、ニーチェナチスの思想を支えるものだと勘違いされるような状況に近いんだけど、やっぱり、しっかりと噛み砕いて読んでいかない限り、ころっと危うい領域に堕ちていってしまう危うさみたいのは感じる。そういう意味で、十分「大人」になってから読む文章なのだと思う。

カイエ・ソバージュ読後記録
カイエ・ソバージュ(1/5):秩序ををひっくり返す装置として
カイエ・ソバージュ(2/5):伴読部第3回『熊から王へ』
カイエ・ソバージュ(3/5):『愛と経済のロゴス』はだいたい贈与論
カイエ・ソバージュ(4/5):スピリットから神が生まれる?
カイエ・ソバージュ(5/5):対称性の復活