伴読部 第4回 『貨幣論』

 よくわからなかった。いや、書いてあることはわかったんだけど、その内容の重要性がよくわからない。現在の問題とあまりリンクしているように思えなかったからだ。やっぱり問題意識の在処が違うんじゃないかな。もう少し経済の歴史を、世界恐慌の辺りから冷戦構造の終わりくらいまでを丁寧に追っていれば、どういう危機意識をベースに思考しているかがわかると思うんだけどね。などと考えて、そうでもないような気がしてきたので、ちょっと現在の問題にリンクさせてもう少し自由に考えていこうかな、と思う。

貨幣論 (ちくま学芸文庫)

貨幣論 (ちくま学芸文庫)

サブプライムショックと貨幣論

 まあたぶん、この本を現代という視点で読むんだとすれば、サブプライムの話を出さないわけにはいかないだろう。本書の一番クリティカルなポイントは、貨幣の価値っていうのは、貨幣そのものにモノとして価値があるからじゃなくて、国家が紙切れを貨幣であるように定めたからでもなくて、貨幣が、貨幣とモノとの永久の循環の中に位置づけられるから、というところ。んで、しかもそういうふうに実体を持たず、循環の中で宙ぶらりんな状態だからこそ、売買の潤滑油足りえる、っていう話。
 サブプライムローンも構造は同じで、借り手はちょっと厳しいローンでも、すぐにベターな条件で借り換えられると信じていたからこそ、あれだけ多くの人が組んだわけで。宙ぶらりんの状態を維持するのはなかなか容易ではなかった。そう考えると、貨幣が宙ぶらりんな状態であり続けられることはなかなかすごいことだ、と思える。

ソーシャルゲーム貨幣論

 それで、そういった類のものであれば、つまりモノと交換できると期待されるものであればどんなものでも、貨幣的に、いや、貨幣として、と言ってしまってもいいと思うけど、流通し得るわけで。いい例がソーシャルゲーム上の「カード」だ。
 近頃グリーとかDeNAとかのSNS会社の辺りが騒がしいのって、結局そういうことだと思うんだよね。バーチャルなガチャガチャで出てくる「カード」に数万円とかの価値があったりする。それって、有価証券になるんじゃないの?じゃあバランスシートに計上しなきゃいけないんじゃないか?みたいな。あと賭博扱いになるのか?とかも。
 そうすると、流通のスタイルが変わるにつれて、もう少し正しく言うと、どういうモノに、どういう情報に交換可能な価値が載るか、というのが変化するにつれて、貨幣的に振る舞うものが少しずつ別のものに変わっていく、ということが起きるはず。

来たるべき社会のかたちと貨幣論

 究極的には、フリー、シェア、パブリックの流れに従って、世の中の価値は貨幣から貨幣でないものに移っていって、しかもそれを貨幣の循環が後押しして、世の中の価値のうち、貨幣が占める割合はどんどん小さくなると思う。市場は市場で機能し続けるだろうけど。
 この本では、資本主義社会が崩壊するのは、恐慌じゃなくてハイパーインフレによるのだ、という意見に落ち着く。素人考えだと、あまりそうも思えない、というか、「資本主義が崩壊する」という言い回しがすでに前時代的な感じがして、なんだろう、脱資本主義はあるかもしれないけど、資本主義崩壊っていうのはちょっとイメージわかないなあ。「市場が崩壊する」≠「資本主義が崩壊する」だし。
 「貨幣でないもの」っていうのが何を指すかはなかなか難しいところだけれども、一言で言えば「インフラ」ということになるかな?例えば、十分に豊かな状態、十分に貨幣を持っている人にとって、パンは渇望の対象にはならない。むしろ、24時間営業のコンビニがそこにあること、流通網が整っていて、いつでもパンの在庫が切れていないことのほうが重要。
 無限に貨幣を持っていたら、小麦を生産する農場を所有して、トラックの運転手を雇って、コンビニを経営するところまで自前でできるのかもしれないけど、そんなのは現実的じゃない。そういう意味で、貧困が解消されていけば、貨幣がすごい力を持っていた時代はやがて終わって、「貨幣論時代」として教科書に記される日もくるんじゃないかなあ、とも。
今回の指定者はなむさん:http://d.hatena.ne.jp/numberock/20120429/1335680142
赤亀さん:http://d.hatena.ne.jp/chigui/20120429/1335630150