伴読部 第8回 『東インド会社とアジアの海』

国でも時代でもなく、東インド会社という切り口が秀逸。
今回は赤亀さんの推薦で、あまり慣れない「歴史」に挑戦することに。

東インド会社とアジアの海 (興亡の世界史)

東インド会社とアジアの海 (興亡の世界史)

 僕の歴史の知識は中学生レベルだけれども、どの辺りの歴史が好きかといえば、日本史なら江戸時代、世界史だと第一次世界大戦。江戸時代だと、幕府がいかに外様大名に反乱を起こさせないように、参勤交代やらせたり、地方の土木工事させたりするのとか、安定性を保たせるような仕組みづくりのあたりがすごくおもしろいなーと思っていた。第一次世界大戦だと、技術革新による「戦争」の意味合いのシフトとか、植民地を巡る利害対立とか、そういういくつもの意味合いが絡みあう感じがとても好きで。
 戦国時代とか十字軍にはないおもしろさを感じていたのだ。そういう人気どころの歴史というのは、派手なんだけどどこか軍事一辺倒で、考えるべきパラメータが少ないような気がしていた。もちろん、実際はそんなことないはずなんだけど、政治、地理、経済、宗教、技術、物流、その辺のパラメータがうまく見えてこないところ、見えづらいところには、なかなかおもしろみを見出せなかったということだろう。僕が歴史を視るときに求めているのは、そういう多くのパラメータが絡みあったときの「力学」で、なるほど、こういったときに社会はこう動くのか!という実感である。そういう読みで見ると、今回の東インド会社の話はオオアタリ。

なぜオランダだけが鎖国中の日本とうまく貿易できたのか?

 これは、分かっていたようで分かっていなかった。日本史の知識を引っ張り出せば、オランダはプロテスタントだから、布教に熱心じゃないのでオッケー、という理解だったんだけど、これはかなりザックリで、そんなこと言っても布教しようと思えばできるし。
 でもここに東インド会社を入れると、構図としては、かなりわかりやすくなる。もともとスペインやポルトガル喜望峰を廻ってインドに足を伸ばしたときの大義名分は「キリスト教の布教のため」だった。貿易でも植民地支配でもない。宣教師を送り込むには、現地で家を建てて稼いで生活して、という一連のライフスタイルを確立しないといけないわけだから、商人やら兵士やらが必要になってくる。そこから貿易が拡大していったわけである。つまり、最終的なゴールが「布教」なんだ。実質そう思っていない人がほとんどだとしても、最初に定めたゴールから完全に離れるのは困難だろう。
 一方で、「東インド会社」という組織をつくると、最終的なゴールは「金儲け」になる。これはいたってシンプルで、儲かるならその国の意向に従うし、そうじゃなかったら従わないとか、出ていくとか、そういう選択ができる。だから現にイギリス東インド会社は「日本では儲からない」と言って出ていくわけである。そして、オランダ東インド会社が残って、日本となかよくやっていく、ということだそうだ。

「征服よりも平和を評価しています」

 「金儲けのための組織なんだ」ということがわかると、東インド会社帝国主義につながる植民地支配のために設立された、というのは誤解であるとわかる。どちらかと言えば、東インド会社は利益が大きくなるように動いていっただけであったが、それは最終的に植民地支配というかたちに結びついていってしまった、というのが正確な理解である。例えば、フランス東インド会社の役員が、インド総督デュプレクスに送った手紙にはこうあったという。

一般にこちらでは征服よりも平和を評価しています。それほど輝かしい成功は必要ありません。もっと落ち着いた、貿易のしやすい状況が望ましいのです。貿易活動を助け、保護するためのいくつかの拠点があれば十分です。勝利や征服はいりません。多くの商品と多少の俸給の値上げを目指すべきです。

 これをどう読むか?平和を価値のあるものとして捉えていた、軍事活動は多額のコストがかかるから敬遠していた、来たるべき植民地時代を十分に見据えていなかった。色々に解釈ができるし、複合的なものだとは思うが、インド会社を動かしていた人々の大方の見解はこのようなものであって、あくまでも、ゴールは金儲けなのであって、「支配」ではなかったのだ。少なくとも東インド会社の時代においては。植民地支配のために東インド会社があったのではなく、歴史のうねりが東インド会社を使って、欧州を植民地支配に推し進めたのだ。

歴史を学ぶことは、社会の力学のセンスを得ること

 「贈与論」を読んだとき、「貨幣論」を読んだとき、この辺りの本を通して「次の社会はどのようにデザインされるのが望ましいのだろう?」ということを考えてきた。もちろん、「デザインすることができる」と思っているわけではないけれど、それを考えることは楽しいことだし、個人レベルでも考えていかなければならないことだと感じている。
 ただ、どういうかたちが望ましいか、を考えるのであれば、社会がどういう流れに「乗りたがる」のか、ということも理解しておかなければならない。ある程度、感覚ベースまで落とし込んでおかないと、センスのない(=的外れな)仮説を立ててしまうことになる。
 東インド会社は良い例で、「ヨーロッパ植民地支配の手先だろ」的な先入観を持っていると、例えばオランダだけが鎖国中の日本とうまく貿易できた理由などはわからない。「教養」というのはたぶんそういうことで、個別具体的な知識を持っているということよりも、「センスを鍛える」ということなのかもしれない。そういう意味で、歴史を学ぶことは、社会がどう動くかというセンスを得ることなのだろう。

赤亀さん:http://d.hatena.ne.jp/chigui/20121028/1351434336
なむさん:http://d.hatena.ne.jp/numberock/20121030/1351616548