いきものをあまり観察しない人は、

あ、ども。
いつも虫取りご苦労様です。
我が家のおヤモリさま。
 この写真だと分かりにくいけど、これは右の後足を怪我している個体で、去年も出会った。怪我をしているいきものというのは、いきものをあまり観察しない人が考えるほど、少なくない。「金沢城のヒキガエル」でも、著者が片足を失ったヒキガエルと数年間なんども遭遇した、というエピソードがあった。足を失うくらいですぐに生きていけなくなるような個体は、そもそもすぐに淘汰されてしまう、みたいなことでもあるのだろうか。それとも、足を失ったくらいでは、なかなか淘汰されないのか。
 いきものをあまり観察しない人は、いきものと音が結びついていない。ハトの「ほーほーっほほー」みたいな鳴き声を認識していない人は、意外に多い。「くるっく」だけではない。たくさんいるいきものなのだから、観察できる機会も多いはずなのだけど。
 いきものをあまり観察しない人は、いきものがどういう状態にあるのが「自然」か、ということがよく分かっていない。水槽の底のほうでじっとしている魚を見て、「生きてるの?」などと言う。生きているに決まっている。彼らの頭の中では、魚は常に泳ぎ回っていないといけないらしい。無駄なときにエネルギーを使わないほうが自然だと思うのだが。
 いきものをあまり観察しない人は、いきものの生活に多様性があることを知らない。僕がよくナマズのこどもを採っていた田んぼがなくなってしまったとき、ある人は「来年はナマズが一匹も採れないだろう」と言った。そんなはずはない。確かにナマズは田んぼで産卵することを好むが、ため池の浅瀬で産卵することもある。実際に、次の年はまあまあの量のナマズを採った。
 こういったことは、なにもいきものの話に限らない。「観察」を軽視することは、どんなときも考えをおかしな方向へ導く。それはたいてい、事実とは異なる方向だ。