どこからどこまでが読書?[多読術]

「多読術」(松岡正剛)読了。
多読っていうか、自由に読め!って感じ?

多読術 (ちくまプリマー新書)

多読術 (ちくまプリマー新書)

目次
第一章 多読・少読・広読・狭読
本棚拝見/本は二度読む/たまには違ったものを食べてみる/生い立ちを振り返る
第二章 多様性を育てていく
母からのプレゼント/親友に薦められた『カラマーゾフの兄弟』/文系も理系もこだわらない
第三章 読書の方法を探る
雑誌が読めれば本は読める/三割五分の打率で上々/活字中毒になってみる/目次をしっかり読む/本と混ってみる/本にどんどん書き込む/著者のタイプを見極める
第四章 読書することは編集すること
著者と読者の距離/編集工学をやさしく説明する/ワイワイ、ガヤガヤの情報編集/言葉と文字とカラダの連動/マッピングで本を整理する/本棚から見える本の連関
第五章 自分に合った読書スタイル
お風呂で読む・寝転んで読む/自分の「好み」を大切にする
第六章 キーブックを選ぶ
読書に危険はつきもの/人に本を薦めてもらう/本を買うこと/キーブックとは何か/読書しつづけるコツ/本に攫われたい
第七章 読書の未来
鳥の目と足の目/情報検索/デジタルvs読書/読書を仲間と分ち合う/読書は傷つきやすいもの
あとがき

再読について

そうではなくて、その本について「今日この日」に書いているのだから、初読当時の感想を今日の時点からあらためて眺める視線が必要です。この時間と空間をまたぐ視線が、意外に読書力に必要な視線でして、それには、その本を「今日の時点」でも感じる必要があるわけです。

 これは著者が「千夜千冊」を書く際に「再読」をする理由として述べた部分。最近の僕のベーシックな読書スタイルは、付箋を貼りながら読んで、ブログでまとめる前に付箋の付いた箇所を拾って読む、というものだ。著者が推奨する「本をノートとみなす」とは異なるが、これが結局「初読当時の感想を今日の時点からあらためて眺める」になっているかのかもしれない。もちろん、著者がまたぐ時間と空間には到底及ばないけれど。

本を手に入れる前から読書は始まっている

読書というのは、読む前に何かが始まっていると思ったほうがいい。それを読書をするときだけを読書とみなしているのが、とんでもないまちがいです。

 言われるまで気づかなかったけど、確かにその通りだ。僕は、ある本を買うまで10回は背表紙を眺める。そのうち、5回は手に取る。2回は目次以外にもに目を通す*1
 読む前から読書が始まっているとすれば、その時から思考はスタートしている。問題意識や好奇心、あるいはそれ以外のなにかから思考が始まり、ある種の先入観のようなものが形成される。「筆者はこんなことを言うだろうな」であったり、「でも僕の持論ではこうだな」であったり(まだ読んでもいないのに)であったり、思考が無限に展開する。
 欲しいなと思ってから買うまでのスパンが長いほど、「あたり」である可能性も高い。長い期間を置いても購入意欲を薄れさせない本には、やはりそれだけの中身が伴う。その本の扱うテーマに対する考えも深まったり深まらなかったり。やはり、読む前から、もっと言えば、本を手に入れる前から読書は始まっているのだ。

読書による思考の整理

第一には、読書は、現状の混乱している思考や表現の流れを整えてくれるものだと確信していることです。「癒し」というのではなくて、ぼくはアライメント、すなわち「整流」というふうに言ってます。

 読書感想をブログにあげるとき、この「整流」がうまくいっているとよい記事になるなあ、という気がする。主観だけど。そういう意味で、読書体験を編集することは、「整流」がうまくいっているかどうかのバロメータになるのかもしれない。
 もちろん、すべての読書で「整流」がなされるわけではないだろう。むしろ思考がぐっちゃぐちゃになったり、自分の芯が揺さぶられるような読書体験もある。しかし、そういった本に出会ったら、最終的には思考を整える必要があるだろう。そういう意味で、「整流」は後から追いかけてくることもある。そうすると、読書は読後も続くと言えるのかも。

*1:アマゾンだともう少しステップが少ないぶん、「書評ブログを読む」というステップが加わる