鯨捕りよ、語れ!

「鯨捕りよ、語れ!」(C.W.ニコル)読了。
「食べる」という体験が思想を産む。

鯨捕りよ、語れ!

鯨捕りよ、語れ!

目次
家族から遠く離れて
初めての大作と格闘する日々
巨大野生生物を仕留める壮大なドラマ
クジラをめぐって様々な人との出会い
再び大型クジラが捕れる日
全盛期のクジラ捕りたちは…
紡ぎだされる海の男の物語
心痛む日本でのイルカの殺し方
いつも感銘を受けた解体作業
帰路、地獄の嵐に遭う
小説「勇魚」の完成と帰国後の日本
いま、クジラについて考えること

 世間でクジラがホットな時期とは少しずれてしまった。いつも、このブログは時事ネタからは遅れているような気がするが、それは気にしない。冷めてしまった鉄にも、まだやらなければならない作業はあるし、「盛り上がれば良い」という類の問題はそう多くないと思う。
 さて、C.W.ニコルである。日本びいきのエコロジストは、捕鯨についてどういう意見を持っているのだろうか?僕は、C.W.ニコルを、安易に思想の決断を下さない人物として尊敬している。彼は、捕鯨をどのように体験し、どう考えているのだろうか?
 ……と思って読んだのだが、この本はむしろ、彼がどうやって彼の思想に辿り着いたのか、を確認するための本であるようだ。「日本人でなければ書けない」とまで言われた捕鯨物語勇魚〈上〉 (文春文庫)を書いた南ウェールズ出身の彼は、どうやって自らの信念を構築したのか?
 捕鯨船に乗り込み、捕鯨を生業とする者とともに鯨の肉を食べる。一部の日本人の惨たらしいイルカの殺し方を見れば、静かに反論する。捕鯨に偏見を持つ一部のアメリカ人には、大声で反論する。
 「食」というのは人間の根幹に関わる行為である。食事をしている姿を見れば、その人の育ちがわかるらしいし、知らない人と食事をするのは大きなストレスであるとか。そうであればこそ、

ある一群の人間が他の人々をばかにしたり、批判したりするとき、一番簡単なのは、人々が伝統的に食べているものの名前で呼ぶこと。

 複雑な問題を簡略化することは好まないが、捕鯨議論が感情的になり易いのは、「食」が人間性に直結していること、あるいは、そのように直感的に理解していることが関係しているのだろう。
 しかし、ニコルはそういう「食」と人間性との直面から目を背けずに、むしろ自ら、鯨捕りとともに鯨の肉を楽しみ、語らった。まだわからないが、彼の信念の起点はそこにあるのかもしれない。