菊と刀

菊と刀」(ルース ベネディクト)読了。
外国から見た日本人というのは、いつも興味深い。

菊と刀 (光文社古典新訳文庫)

菊と刀 (光文社古典新訳文庫)

目次
謝辞
第1章 研究課題―日本
第2章 戦時下の日本人
第3章 応分の場を占めること
第4章 明治維新
第5章 過去と世間に負い目がある者
第6章 万分の一の恩返し
第7章 義理ほどつらいものはない
第8章 汚名をすすぐ
第9章 「人間の楽しみ」の領域
第10章 徳目と徳目の板ばさみ
第11章 鍛錬
第12章 子どもは学ぶ
第13章 敗戦後の日本人
原注
解説
年譜
訳者解説

 驚くべきは、著者は日本を1度も訪れていないことだ。そのせいか、「海老で鯛を釣る」の意味を捉え違えていたり、「八百万の神」を「四万の神」としているなど、全力でつっこみを入れたくなる部分があって、ドジっ娘ベネディクトたん萌え*1。じゃなくて、それにもかかわらず、本書の評価が刊行から50年以上たっても揺るがないのは、50年が経過したくらいでは変化がないレベルで、日本人の本質をつきとめているからだ。

応分の場を占めること

 紹介したい個所はたくさんあるが、まずは「応分の場」から。

ところが、日本人は階層的な上下関係に信頼を寄せており、それは人間関係や、人と国家の関係における基本となっている。

現代で「階層」などと言うと、否定的なニュアンスで用いられることがほとんどだが、注目すべきはそこに「信頼を寄せて」いるというところだ。確かに世界史を見れば、「階層」はなくなるべきものとして描かれているが、一方、日本では「階層」が秩序を保つための装置として信頼されているというのだ。
少し前に、このようなエントリが話題になった。
人生は早めに諦めよう! - Chikirinの日記
 このエントリは、海外では若くして自分の階級に気づくのに、日本ではそれが遅いからエネルギーロスがある、という話だ。ここから、『早めに「人生の天井」を知る』べきとつなげるところが、極めて日本的だ。これが、まさにベネディクトの指摘する「日本人は応分の場を占めることに価値を置く」ということである。
 海外では、階層は渋々従わなければならないものだ。一方日本では、階層は主体的に従うものとみなされてきた。この辺は日本の労働環境の問題ともつながるが、話が拡散してしまうので、ここで打ち止め。

恥の文化

 もうひとつ。倫理がなにに由来するのか?ベネディクトはこう指摘する。西欧文化は個人の内面に由来する「罪の文化」であり、日本文化は個人の外側に由来する「恥の文化」だ、と。

彼はただ他人がどういう判断を下すであろうか、ということを推測しさえすればよいのであって、その他人の判断を基準にして自分の行動方針を定める。皆が同じ規則にしたがってゲームを行ない、お互いに支持しあっているときには、日本人は快活にやすやすと行動することができる。

 そして、この規則から外れた行動をとったとき、日本人は「恥」を感じる。「恥」が各個人の行動や、社会の動きを規定している。このような文化を悪だと断じることは容易いが、これが必ずしもマイナスであるとは限らない。ただ、問題があるのは、

彼らがもっとも手痛い心の痛手を受けるのは、彼らの徳を日本特有の善行のルールがそのまま通用しない外国に輸出しようと試みるときである。

おわりに

 ここまで読んでいただくと、ベネディクトが西欧⇔日本という二元論的な考え方をしていることが分かると思う*2。個人的には、あまりそのような考え方は好きではないが、それだけ彼らにとって「日本」という存在が異質であったということだ。
 個別の情報はすでに現在の日本の状況とは異なっているものも多い。しかし、現代の日本人にしたところで、「応分の場」や「恥の文化」などは、口では否定できても、脳のなかにはしっかりと根をおろしているミームだ。これを把握しているか否かは、大きい。

*1:ベネディクトは女性

*2:そして、ややステレオタイピックでもある