万象に天意を覚えるものは幸せなり

「評伝 技師 青山士」(高崎哲郎)読了。
万象に天意を覚えるのは、もう少し先になりそうです。

 以前、改修中の大河津分水に行ったことがある。青山士(あおやまあきら)の名を初めて知ったのはそこだ。碑文には彼の名ではなく、ただその言葉のみが記されていた。

萬象ニ天意ヲ覚ル者ハ幸ナリ
人類ノ為メ国ノ為メ

万象に天意を覚えるものは幸せなり

 実は父の実家が、新潟の亀田*1で、ここはちょうど大河津分水のおかげで水害が減じられた地域である。以前から「分水」という名は祖父や祖母から聞いていたが、ある種の地名だと思っていた。しかしそれは、水を分かつための放水路であったということに気づいたのは、僕が農業水利を専攻してからだった。
 そして僕は初めて、あの碑文を目にしたのだけれど、それがひどく気に入ってしまって、いったい青山士とはどんな人物なのか、ずっと気になっていた。「人類ノ為メ国ノ為メ」というノリはキリスト教のそれだから、おそらくクリスチャンか、そういった思想を強く受けた人物だろう、ならば「天意」とは本来的には「神の意思」くらいの意味か、というようなことを思った。
 そうして、僕は河川工学を学んで、今はどうやらさっぱり違う場所にいるのだけれど、本書を手に取る機会があった。なんかこう、ずっと会いたかった人に会う、みたいな感じで。蓋を開けてみると、なんと青山士は内村鑑三の門下生であったということだ。内村鑑三といえば、明治時代のキリスト教思想家で、日露戦争に反対した知識人とかで有名な人。
 なるほどね。しかし読めば読むほど、青山士が思想的に「世のため人のため」を地で行っていたことがわかる。僕の思想史のなかでは理想化し過ぎてしまっていたかな、と思っていたけど、そんなことはなく、むしろそれよりも洗練された人物だったようだ。

パナマ運河荒川放水路、そして大河津分水

 「青山士」という技術者の誕生を決定づけたのは、パナマ運河のプロジェクト。日本人のメンバーは彼一人であり、差別などにも苦労したらしい。しかし一番驚いたのは、彼のポジションである。東大の土木を出て、現場に配属と言ったら、それは現場監督くらいからだと思うじゃないか。それが、どちらかと言えば作業員よりのポジションだったらしい。「ブルーワーカー」とまで言及している。これが青山士を官僚的な人物ではなく、技術者にしたと言っても過言ではないだろう。
 日本に帰ってきた青山士が取り組むのが、荒川放水路。実はこの土地にも少しご縁があって、僕が以前住んでいた場所は、旧岩淵水門にも近い*2

この朱色がね。土木構造物というよりは、むしろ鳥居のような宗教建築を思わせる。なんといっても、もう稼働していないわけで、ただの遺産なのだから。この赤水門が青山士によって造られたのが1924年、その隣には絶賛稼働中の青水門があって、これは1982年に造られたもので、どちらかと言えば、工業的な薄い青色をしている。このコントラストが、それぞれの役目と歴史を感じさせる。

実際に会われてみてのご感想はいかがでしたか?

 公人としては、多くを語った。

又私共土木に従事して居る者は脚絆掛で泥足袋・泥服で毎日毎日土龍のやうに何年も土をほじくって居るけれども、恐らく東京近辺の人は私共が何をして居ると云ふことを知って居る人はあまり無いだらうと思ひます。(中略)工人或いは技術者が連合して、相当に我々の出来得ることも広告した方が却って良いだらうと私は考えるのであります。

これなんかね、もう僕が現状に対して思っていることとまったく同じだし。業界体質なんですか?
 ただ、青山士がどんな人物だったか、という根幹はよくわからなかった。これは批判ではなく、おそらく青山士がそういう人物であった、ということだろう。つまり、プライベートな部分は少なく、ほんとうの意味で「世のため人のため」に動いていた人間ということだ。だからたぶん、もし青山士と親交があっても、イマイチどういう人なのかは理解できなかったかもしれない。プライベートでは多くを語る人ではなかったのだろう。だが、そうであればこそ、大河津分水に刻まれた「万象に天意を覚えるものは幸せなり」という言葉の重みが際立つのだ。

*1:柿の種で有名な亀田製菓の「亀田」です。

*2:ちなみに青山士が一時期住んでいたのは田端のあたり。田端文士村ってやつ。僕も住んでました。ご縁がありますね。