願わくは、これを語りて平地人を戦慄せしめよ。
ついに遠野物語を読んだ。河童に天狗、こんな世界があるのかって感じで心地よい。でも、これって、なにが凄いんだろう?この疑問は間違いなく大切なんだよね。遠野物語を単純な昔話集として楽しむことができるだろうか?いやまあ、できると言えばできるけど、本屋のベストセラーに並んでいる小説たちのように*1、「おもしろく」はないだろう。
- 作者: 柳田国男
- 出版社/メーカー: 角川学芸出版
- 発売日: 2004/05/26
- メディア: 文庫
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でもこの感覚って、ちょっとマニアックすぎるよね、というのが本心。僕は正直、この観点だけでは、柳田國男についていけない。むしろ、よくわかるのは中沢新一の語っていた「始原の探求」。文化人類学や民俗学の多くが、この欲望からスタートしていると思う。
場所によっては江戸時代以降、多くの地域では明治以降、都市の住民は豊かになっていく一方で、従来の地域コミュニティが持っていたものを次々に失い始める。ざっくり言えば「絆」だったり、固く言えば地域コミュニティ内での対話だったり。そのうちのひとつに、「われわれはどこから来たのか?」という問いが含まれるはずだ。
歴史学を探求する欲望はたぶんそこにあるし、子供の頃、家系図を辿ってみたいと思ったことはだれでもあるのではないだろうか?始原がわからないということは、人を不安にさせる。自分の親が誰だかわからない、という状態が人を不安にさせるのと近いだろう。
そういう問いに対して、神話や民話は答えを用意している。なんという神様がこの地を用意したのか、この地にはどういうモノが潜んでいて、どういう過去を持っているのか。
都市化とともに、地域コミュニティ内での対話が失われるとともに、「われわれはどこから来たのか?」の答えが見えなくなってくる。誰がそれを知っているのかわからないし、オモテムキには生きていく上で、そんな問いは必要ないからだ。ここに、断絶が生じる。
だが、柳田國男は見つけた。再発見したのだ。遠野という奥地に、「われわれはどこから来たのか?」の答えを。赤坂憲雄の著作などを読むと、柳田は日本人を統一のまとまりとして捉えたがっていたようなので*2、この思想ともよくフィットする。つまり、日本人が共通のテクストとして持つべき、「われわれの始原」を。
きっと、柳田の静謐な書きぶりは、こうしたものを多くの日本人が必要としているはずだという確信であり、「平地人」(≒都市生活者)は始原を再構築すべきという信念であったのだ。だから、願わくは、これを語りて平地人を戦慄せしめよ。そう、筆を進めたのである。