わが悲しき文豪たちの思い出

マルケスが亡くなったそうだ。読み途中になっていた、マルケスリョサの対話を急いで読む。急いで読んだって仕方がないのだけど、例えばそれは、すでに出発している、想い人が乗った電車を2,3歩ほど追いかけるような気持ちに近いかもしれない。

疎外と叛逆ーーガルシア・マルケスとバルガス・ジョサの対話

疎外と叛逆ーーガルシア・マルケスとバルガス・ジョサの対話

 それほど部数が伸びるはずのなかったマルケスリョサの対談本は、今頃、増刷の準備で大忙しだろう。買っておいて良かった。ラテンアメリカ文学の巨匠、マルケスリョサ。2人は対照的だ。煙に巻くように、無数の物語を編み続けるマルケスと、あくまでも現実的に、実直に物事を捉えようとするリョサ。2人の対談では、その差が浮き彫りになる。
 リョサは、文学の破壊的な側面、社会への影響力に対し、「作家はどの程度意識的なのか」と問いかける。リョサは「意識的な」作家だと思うので、リョサ自身は、5段階評価なら「まあまあ意識的」に丸をつけるくらいの心持ちだったろう。一方、マルケスは、意識的であった瞬間に、作品は失敗の道を辿る、という。むしろ、文学とはそうした社会への影響を意識してつくるものではなく、「個人的葛藤を解消するための手段」とまで言っている。
 「百年の孤独」には、家族を連れて新しい町をつくった彼の祖父や、自身の死を予期する叔母が、かたちを変えて登場している。「個人的葛藤を解消するための手段」というのは、リョサにとっても頷ける内容だったようで、この対談(1967)ののちの、リョサへのインタビュー(2013)が収録されていて、ここで「都会と犬ども」について、似たようなことが語られている。
 創作への意欲は、「個人的葛藤を解消するための手段」からしか生まれない。そう言い切っても、もう問題ない。物語そのものは、社会的なメッセージを伝えるためとか、商業的な意味合いとか、承認欲求などから生まれるかもしれないが、「創作がしたい」という欲求そのものは、個人の葛藤に根づいているだろう。そうでないものは、創作以外の手段で代替可能なのだと思う。この個人的葛藤を突き詰めていって、普遍的な内容に昇華すると、「百年の孤独」や「都会と犬ども」になる。
 対談では、リョサマルケスとその作品に敬意を示しているのがわかる。作風こそ違うが、ラテンアメリカの文学を担うものとして共闘すべき、していこうという意思が見え隠れする。だからこそ、1976年にリョサマルケスに顔面パンチを食らわせた出来事は、なにかこう、もどかしい気持ちを思わせる。
 事実はわからないが、僕はリョサに共感的だ。なんというか、他人に期待している、世界に期待しているところが多分にあって、現状では満足していないけれど、こうあるべきだ、という少し複雑な理想形がある。特に、マルケスのような、自分にはない、ほとんど先天的とも言える大きな力を持った人物に対しては、ある種の羨望とともに、大きな期待をかける。顔面パンチは、マルケスへの期待が裏切られたことへの腹いせのようなものだったかもしれない。
 しかし、リョサマルケスの作品には敬意を払い続けたように、作品としての価値は揺らぐことがない。ガルシア・マルケス。偉大な語り手であった。
百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

エレンディラ (ちくま文庫)

エレンディラ (ちくま文庫)

春の新書祭り

電車での長距離移動が増え、まとまった時間ができたので、親書をいくつか読んだ。企画中だった新書を増税前の3月までに出してしまおうという出版社の意図だろうか、ラインナップに興味を惹かれるものが多かった。

インフラ分野が政治に翻弄されてきたことがよくわかる。公共事業は、あるべき「必要性を検討し、優先順位をつけ、実行に移す」という当然のプロセスを踏まずに進んできてしまったけど、これからは、上の世代が造ってきたものを適切にメンテして延命していく以外には方法がないので、昔ほど「政治にとって旨みのある領域」にはならないだろうなあ。ただ、どこに選択して資本を投下していくか、という「選択と集中」が国民から強く要請されるようになるはずで、これは成長期の「どこを優先的に開発していくか?」というテーマと構造的には一緒なので、合意形成のうえでなにがまずかったのか?どうすれば良かったのか?というLessons Learnedはかなり有効なはず。
東大教授 (新潮新書)

東大教授 (新潮新書)

僕の勝手な印象では、東大(に限らず)教授というのは、自分の立ち位置を、自分の望むようにコントロールしやすいポジションと思っている。もちろん、分野によって違うとは思うけど、アカデミアで研究をひたすら突き詰めていくのか、企業や公共との関係性を深めて社会への影響力を深めていくのか、教育への比重を高めていくのか、マニアックな領域を突き詰めていくのか。企業人や公務員と比べて、これらのバランスをコントロールしやすい、だろうなと思っている。「私は研究者なので」というお断りは、「社会に対する責任は自らの知で負うものであって、それ以外ではない」というタテマエとニアリーイコールであって、他の立場ではなかなかないように思えて、そこが魅力的。ここは退屈迎えに来て」とか、最近の本だけど、こういう人達に満ち満ちている「地方は退屈。東京の劣化コピーだから」みたいな発想がもう過去のものになりつつある、というか、そうでない流れが成立しつつある。大都市が輝いて見えた時代、というのはひとつの価値観が大変なパワーを持っていたから成立したのであって、豊かな社会では、大都市的な価値観の人間も、地域から出たがらない「ヤンキー」も、どっちも成立し得るということと思う。ビジネスの分析として切りだされているけど、これって当然カルチャーと価値観の話でもある。コピーであるかどうかとか、より優れたモノを求めたい、といった価値観とはまったく別のところに価値観を見出しているというのは、わからない人にはまったくわからないのだろうなあ。

人間にとっての、物語の必然性

「密林の語り部」を読む。すごくおもしろかった。個人的に、自分の思想によく連なる内容でありながら、新しい視座を与えてくれる物語だった。

密林の語り部 (岩波文庫)

密林の語り部 (岩波文庫)

 実は、ホワイトデーで貰った一冊。彼女さんとはバレンタインデーとホワイトデーで本を贈り合うことになっていて、予めアマゾンの「ほしいものリスト」をお互い送りつけ、その中から贈り主が選択する。そういう意味で、僕のなかでは必ずしも優先順位の高かった本ではなく、そうした機会が「小さな一押し」となった。ちなみに、僕が贈ったのは、コレラの時代の愛である。うわぁ。
 マルケスの「エレンディラ (ちくま文庫)」を読んでからというもの、ラテンアメリカ文学にもそれなりに興味があって、「百年の孤独」も酒を呷るように読んだ。だけど結局マルケスしか読んでないから、ラテンアメリカ文学=「未開と現代が混じり合うなかに生まれた幻想的な雰囲気の漂う文学」くらいのことになっていて、マジックリアリズム売りなんだよね、という理解になっていた。
 だから、「密林の語り部」を読んで、秩序立てられたつくりに少し面食らった。もちろん、章ごとに語り部による語りが挟まれるが、中沢新一の受け売りで(笑)神話を構造的に理解したつもりになっている身としては、挿入される語りは見事に「神話としての要件を満たすように的確につくられているように」見える。リョサが実在する「語り」をベースに用いたのか、ゼロベースでつくっていったのかはわからないけど、植物にも種類によって男と対応するもの、女と対応するものがあるという二項対立の考え方、集団の存続を脅かす行為をしたものは人間ではなく動物に変わってしまうという考え方など。ナマの神話というものに触れたことはないけれど、ノイズが少なく、システマチックにつくられていると感じた。
 加えて、問題意識、テーマ設定が明確だ。文明化されることによって失われるのは、民族のどういう部分なのか?あるいは、民族はなにを喪ったときに、滅びてしまうものなのか?
 文学が好きな人は、こういう「かっちりした」作品よりも、それこそマルケスのような評論しづらい作品を高く評価する傾向があるように、僕は偏見を持っているけど、僕としてはこういう作品がわりと好きだ。明確なもので周りを固めていけば、明確でないもの、考えなければいけないところは自然と際立つからだ。
 この本を読んでから、六本木の青山ブックセンターで、マルケスリョサの対談本を手に取った。今読み中だが、マルケスが飄々とした雰囲気で、しかし濛々と立ち昇る煙のような語りをするのに対し、リョサの語り口は明晰でマジメ。両者の違いがよくわかる。「緑の家」を読んだらそんなことも言えなくなるのかもしれないが、ともかく、マルケスリョサなら、僕は圧倒的に後者がすんなりと入ってくる。
疎外と叛逆ーーガルシア・マルケスとバルガス・ジョサの対話

疎外と叛逆ーーガルシア・マルケスとバルガス・ジョサの対話

 文明化と民族の消滅の話に戻ると、真っ先に思い出したのは、水村美苗の「日本語が亡びるとき」だった。英語がグローバル公用語として世界を席巻するなかで、日本語が「国語」として、ただの「言葉」としてでなく、文化や伝統を継承する器、あるいはそのものとして生き残れるか、というテーマであった。「警鐘を鳴らす本」ではなく「言語とその周辺を愛することとはどういうことか?」という賛歌的な読み方のほうが、もしかしたら正しいのかもしれないけど、深く理解し愛すればこそ、危機を訴えたくなるというのもまた事実である。
日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

 着る服が変わる、生活の仕方が変わる、日々食べる物が変わる。そうした変化と同じくらい、あるいはもっと根深い変化として、共有する言語や物語が破壊されること。そうして考えていくと、結局、ある集団を、ある集団たらしめているのは何なのか?ということを考えざるを得なくなる。
 マチゲンガ族をマチゲンガ族たらしめていたのは、物語であった。きっと、レイヤを変えても通じる話だろう。日本人を日本人たらしめているのはなんだろうか?それは血縁のような物理的なものではなく、言語であったり、物語であったりする。だから、人間にとって、物語の存在は必然だった。神話という形態であれ、民話と呼ばれるものであっても、もしかしたら文学や小説のようなものでも。
 遠野物語は、遠野の物語であった。遠野以外の地域にも遠野物語に相当するものがあった。しかし、それらは喪われてしまった。ローカルな集団は都市化とともに喪われてしまった。多くの先進国では同じことが起こってきたはずだ。物語の解体は集団の解体でもあるということだ。
 僕らが知っている、聞いたことのある神話や民話は、本来それ以上の価値があったものだった。しかし、集団を集団たらしめる物語は、まず間違いなく喪われる運命にある。グローバル化のなかで、止められるものではない。自然は常にエントロピーの大きいほうへ。きっと、僕らにできることは、そうした物語と集団の関係に意識的であるようにし、尊重することだけだろう。

リョサの東大での講演も視聴したいと思ったけど、これって日本語訳も英語訳もないの!?→http://todai.tv/contents-list/events/73hgcz/f9v3oi

遠野物語―付・遠野物語拾遺 (角川ソフィア文庫)

遠野物語―付・遠野物語拾遺 (角川ソフィア文庫)

 

犬の伊勢参り

ちょうど伊勢へ行くので、予習がてらに。けっこう「考える余地」のある本なので、おもしろいです。

犬の伊勢参り (平凡社新書)

犬の伊勢参り (平凡社新書)

伊勢参り

 プロジェクトの切れ目を狙い、お伊勢参り。日本人の旅行の起源はお伊勢参りにあるという。名古屋から「特急みえ」に乗り、海沿いを走り、鳥羽を拠点とした。かつて、多くの日本人が切望した参詣を、少しの好奇心とわずかな時間で成し得ることに、かすかな断絶を感じながら、外宮と内宮を訪れる。

 式年遷宮の後だったので、まだ真新しい宮が立っている。アニミズム的なごった煮感は一切なく、明るい森と宮と風だけがあって、大変シンプルな空間だと思った。沖縄の御嶽の空間のように、「なにもない」ことが「なにかが降りてくる」ことを想起させるようにできているのだろう。……まあ、人はごった返しているけど。

 伊勢参りの願いごとは、「良い縁がありますように」とか「受験に合格しますように」とか、個人的な願いはNGらしい。パブリックな神様だ。そろそろ本題に戻ると、犬もお伊勢参りしてきた歴史があるのだとか。その謎を解き明かすのが本書。ほんとうに犬が伊勢参りをしていたのか?もしYESだとしたら、なぜそんなことが可能であったか?

犬の伊勢参り共同幻想に支えられている

 白い犬が伊勢を目指して歩き続ける。真っ先にイメージするのは「大神」というゲームだ。「大神」は犬=アマテラスがヤマタノオロチを倒しにいく物語で、世界観が心地良い。犬がアマテラスなのは、本書を読んだあとには違和感があるものの、まあ、そこはご愛嬌。

大神 絶景版 - PS3

大神 絶景版 - PS3

 アクションゲームでは、プレイヤーキャラクター=プレイヤー自身なので、ステージをどうやって進んでいいかは一切わからない。そこで、よくできたゲームは、チュートリアルやマニュアルをゲームに組み込む。どうすれば先のステージへ進めるのか?どうすれば障害物を越えられるのか?そういったことは自然とわかるように設計される。
 しかし、現実はゲームのようにはいかない。伊勢参りをする、という目的を持たないはずの犬が、どうやって伊勢に向かうのか?飼い主に希望を託され、伊勢参りに向かった犬はどうやって伊勢まで辿り着くのか?もちろん伊勢参りをする犬というのは、かつて伊勢に行ったことがあるから行ける、ということではなく、まったく初めての犬も含まれるという。
 詳しい考証は本書を読んでもらうとして、結論は、犬の伊勢参りは、人々の支えがあって初めて成立したということだ。噂が先行し、犬を見かけた人が「これが噂の伊勢参りの犬では?」と考え、木札に遭遇場所を書き記して首に下げ、銭の穴にひもを通して首にまいてやる。これで、立派な「伊勢参りの犬」のできあがり。
 血液型別性格診断の話に似ている。アタリマエだが、血液型が性格に影響することはない。しかし例えば、「O型は大雑把だ」と周りに言われ続けると、O型の人が「私は大雑把なのだな」と思い込み、実際に大雑把になっていく。思い込みが現実に影響していくというプロセス。

野良犬ではなく、里犬

 そういう共同幻想が成立するにはたぶんいくつか条件があるだろう。本書では、伊勢参りとは直接関係させないものの、「里犬」の存在に言及していた。ここで言う「里」は里山の「里」とほぼ同意義だ。パブリックな所有物であって、誰のものというのではなく、皆のものであり、皆が管理するものということ。
 この間、NHKの「世界ふれあい街歩き」のアテネ回を見たけど、犬が街中に寝転んでいるのが、よくカメラに収められていた。ベビーカーを押して店に入ろうとする婦人が、店先に寝ている犬のせいで入れない。けど、その犬を起こして店に入るんじゃなくて、店員と協力して、ベビーカーを持ち上げて店に入る。これ、絶対日本ではあり得ない光景だと思う。「申し訳ございません」とか言って、犬を追っ払うんだろうから。財政危機で捨て犬が増えても、絶対に犬猫を殺処分しないギリシャは正直なに考えてんのかよくわからないけど、それでも、犬が気持ちよさそうに寝ているのを見ると、「これでいいんだ」って思えるのかもしれない。
 現代でこそ、犬は個人が所有するという形式を取るが、街の人みなが飼う犬というのが存在していた。それは、アテネのような風景かもしれない。野良犬(=誰も飼っていない犬)ではなくて、街の人が共同で世話をする犬だ。人間と犬の1対1の関係ではなく、多対多の関係があった。
 犬の面倒を見てやる、という仕事がコミュニティの仕事であったから、人慣れする放浪犬を受け入れる土壌があった。そう考えられる。自分の家の犬だか世話をすればいいのではなくて、「みんな」の犬を世話してやる。一匹や二匹増えたところで大した違いはない。その中に伊勢へ向かう「旅人」のような犬がいたら、その犬の世話をしてやるのも自然なことだ。自分たちの犬も、お世話になるのかもしれないのだから。

スピリットから神が生まれる?

中沢新一カイエ・ソバージュ4巻目。「熊から王へ」で、王がどのように誕生してきたのかを明らかにするように、どうやって神(一神教の言うところの唯一神)が生まれてきたのかを明らかにしていく。

神の発明 カイエ・ソバージュ〈4〉 (講談社選書メチエ)

神の発明 カイエ・ソバージュ〈4〉 (講談社選書メチエ)

 一神教には唯一神が、多神教にはカミが、アニミズムにはスピリットが対応する。唯一神はキリストを考えればいいし、カミはコノハナノサクヤヒメでもポセイドンでもいいけど、スピリットのイメージがつきづらい。スピリットのイメージは座敷童だという。

・スピリットは周りを閉ざされた空間の中にいつもは閉じこもっている。
・スピリットはその空間からデリケートに出入りをおこなう。
・スピリットが住処とする中空の空間はまた、さまざまな「増殖」のおこなわれる空間でもある。

ああ……これは……どうみても「虫」です。本当にありがとうございました。というか、スピリットのイメージは明らかに、小さくて弱い、多様な生きものから来ているように思う。中沢さんのイメージでは、妖怪だそうで。
 一昨年〜去年くらいにかけて、妖怪人気が高まってきていると思っていて、去年の夏は横須賀美術館、横浜そごう美術館、三井記念美術館で妖怪展の同時開催があったりした。妖怪の絵をよく書いていた歌川国芳の人気も同時に高まっているようで、今年の大浮世絵展では、北斎や広重と並べて紹介されるほどになっていた。妖怪好きはスピリット信仰(?)への回帰傾向なのかな、とも思う。僕も生きものとか、民芸品に表される動物とか、地域の妖怪とか、けっこう好きなので、アニミズムと相性はいいのかもしれない。
 スピリットのなかにも、ちょっと偉いスピリットが高神になって、そうでもないスピリットは来訪神になる。そしてやがて、高神が唯一神になる。唯一神は、人類の思考のなかから自然に生まれ得るものであった、ということだそうで。ストーリーとしてはおもしろいけど、完全には納得できない。仮説では?
 後半のメビウスの輪とか、トーラスの話も、「比喩じゃん!」と思った。もちろん、比喩であることは比喩であって良いと思っていて、自説をわかりやすく説明していると思うけども、それはあくまでも物理現象と似たカタチで説明すると、わかりやすいよね、というだけのことであって、根拠にはなっていない。まあそもそも、証明できるような類の話ではないようにも思うけど。
 レヴィ・ストロースがやったみたいに、神話を構造化する手法としてはいいのかもしれないけれど、成り立ちを明らかにするときに使うのはありなのかな?とはいえ、「どうやら理屈はよくわからないけれど、こういう構造で説明するとうまくいくね」は学問の黎明期として捉えるなら、取り得るアプローチとも思う。
 終章では、ここからどうしていけばいいか?という話にも触れている。スピリットの存在を見直すべきだ=対称性を取り戻せ!ということなんだろうけど、もし、これだけだと、ただの懐古主義っていうか、都市を離れてコミュニティつくって、農業して暮らしますか、という結論以上のことは出てこない。
 とはいえ、グローバル社会を全否定して過去に回帰するには、グローバル社会は多くを解決しすぎてきたと思う(もちろん、功罪も多いけれど)。情報化された、均質化された社会を否定するんじゃなくて、その上に「スピリットが再び宿るような」(=固有性・多様性を肯定できるような、適度に遊びのある)社会を、増築でもいいから築けたらよいな、と思う。

カイエ・ソバージュ読後記録
カイエ・ソバージュ(1/5):秩序ををひっくり返す装置として
カイエ・ソバージュ(2/5):伴読部第3回『熊から王へ』
カイエ・ソバージュ(3/5):『愛と経済のロゴス』はだいたい贈与論
カイエ・ソバージュ(4/5):スピリットから神が生まれる?
カイエ・ソバージュ(5/5):対称性の復活

復活&読書メモ

生存確認ポエム的なにか

 復活しました。この2ヶ月は地獄だった。まったくもって相性の悪い上司と2人でプロジェクトというのは堪えるものがある。やっぱり、体育会系の方とは合わないんだなーと実感。
 毎日絶望して帰ってきて、「夜と霧」を抱いて震えて眠っていた(眠れるときは)。毎日夜が明けるのが怖かったけれど、それでも「死にたい」とか思わず、日が昇れば自分を奮い立たせて玄関の外に出られるのは、自分でもとても不思議なことだと思う。
 一体、何が自分を支えているのか、わからない。圧倒的な自己肯定感に支えられた人間ではないはずなのだ。幼少期の親の育て方による自己肯定感なのだろうか?でも、昔は「いつ死んでもいいや」と思っていた時期もあった。守るべき人ができたからだろうか?でも、誰かのために頑張っているわけではないのだ。
 「大丈夫な人たち」は不思議に思わないのだろうか?何が自分を支えているのか、を。僕の場合、きっと「自分を支えているもの」はどうにかして獲得したものであって、気づいたら持っていたもの、ではなかった。
 「自分を支えているもの」は「生きていてよかった」と思う体験だと思う。別に、大したことでなくていい。多摩丘陵にへばりついている家々を夕日のなかで眺めていたとき、琵琶湖に注ぐ濁った小川をみんなで遡ったとき、鹿島灘の寂しい風車に向かって2人でとぼとぼ歩いて行ったとき、雨のなか泣いて帰ってきたらおばあちゃんが温めてくれたどら焼きが美味しかったとき。
 なんか、説明してもまったく伝わる気がしないくらいの瑣末な経験の積み重ねが自分を支えている。なんで、そんなのが?っていうレベルの。誰かと一緒のときの記憶もそうだし、一人だけで感じたことも含めて。
 再現性はない。もし、もう一度生まれ変わったら、同じ経験を積む保証はないし、「自分を支えているもの」を確実に手に入れられるとはとても思えない。幸運であった、そう思うしかない。

本もぜんぜん読めていないし、書く気力も充分と言えないけれど

小説のように (新潮クレスト・ブックス)

小説のように (新潮クレスト・ブックス)

 去年のノーベル賞受賞作家アリス・マンローの本は読んでた。年始だったかな?なんというか、僕はまだこの本を読むには若すぎる、と感じた。10の短篇のなかで、一番心が動いた作品が「顔」なんだけど、これは幼い恋の物語なんだよね。でも、この短編集を読むと、特に女性にはたくさんのステージや立ち位置があって、「顔」に出てくる女の子はその最も初めの1ステージの1タイプに過ぎない、と気づかされる。
 描かれているのは人生の一場面だけれど、その一場面には、それまでのこんがらがった人生がどうにかして縫い付けられている。だから、人生の一場面をほんとうの意味で描き出すには、人生全体を見せてあげないといけない。そんな意思を感じた。
宮本常一 ---旅する民俗学者 (KAWADE道の手帖)

宮本常一 ---旅する民俗学者 (KAWADE道の手帖)

 日本民俗学のラスボス柳田國男の周辺。宮本常一がすごいのは、統一や汎化への欲望を適切に退けているところと思う。柳田國男にとって、遠野物語は、全国にある物語の一例に過ぎなかったけど、宮本常一にとって、見てきたもの、記録しているものは「一例」ではなくて、そこにしかないもの、と捉えているようだ。まさに、常に一。常に、個は個のまま。博物学が生物学を指向するように、一般的にはこうだ、という法則化が進むと思うのだけど、宮本常一はそこにフォーカスせず、ただ、ここはこういうものだ、と把握していく。固有性というのはそういうことで、いわゆる「まちおこし」「地域活性化」に必要なのはこちらの視点なのだろうけど、そういうことを意識している人は少ないのでは。
ローマ人の物語〈8〉ユリウス・カエサル ルビコン以前(上) (新潮文庫)

ローマ人の物語〈8〉ユリウス・カエサル ルビコン以前(上) (新潮文庫)

 ローマ人の物語もちびちびと読み進める。とりあえず「ルビコン以前」読了。カエサルの「公私混同」哲学は流石と言わざるをえない。自らの欲望と公共としてあるべきことが合致しているというのは、何を為すにしても強い。一致させるポジションへ自分を運んであげることも大切に思う。

そんな感じで、ブログもぼちぼち再開していきたいです(未定)。

世界美術への道

ついに辿り着いた。「岡本太郎の宇宙」最終巻。岡本太郎文化人類学的な観点から世界に向き合っていたときの文章を中心に、対決の奇跡が綴られる。メキシコ人よりもメキシコ人らしいふるまい。現代の人間も通過儀礼(イニシエーション)を求めているのではないか。日本人は爆発しなければならない。どのエピソードも強烈だけど、やはりイヌクシュクのエピソードが好きだ。

 イヌクシュクとは、北極圏カナダで見られる、石の積み上げ。僕は真っ先に恐山に行ったときのことを思い出した。死んだ子どもが、生前に為し得なかった善行を積むため、賽の河原で石を積むのだ。石を積むということは、虚しい行為とも言われる。石と石は接着されておらず、いつ崩れてもおかしくないものだ。そこにあるのは、モノとしての永続性ではなく、石が積み重ねられた、という状態でしかない。そういう意味で、永続性を指向するピラミッドとは根本的に異質なものということ。
 岡本太郎は「石は無口だ」と言った。もし口を開いたとしても、「アッケラカンと、俺は石だ、としか言わない」と言った。僕はいつも説明的な理解をしてしまう人間なので、僕の理解では、これは次のようなことになる。石というのは、自然物のなかで、もっとも人間に寄り添わないものだ。もちろん、石器になったり、カマドになったりはするものの、石は形を「変えたがらない」。木は湿気を吸って膨張したりするし、燃えもする。砂は練れば形を変える。しかし、石はせいぜい割るか、削るか、人間が大きな力を加えなければ、形を変えない。そういう意味で、人間に寄り添わない。
 それはつまり、人が影響を与えにくいもの、意味を持ちにくいもの、ということだ。石には意味が付与されない。だから、単に積み上げられた石の、そのひとつひとつに意味はなく、逆に「積み上げられた」という行為のみが強調される。イヌクシュクは「道標」や「歓迎」などの意味を持つというけれど、その原義は「人間的力で行為するもの」だと言う。これにはとても納得する。積み上げられた石はは、もはや石の集合ではない。「積み上げる」という行為がモノになった存在なのである。
 石を積み上げるという行為は「虚しいもの」だ、と捉えられることが多いけれど、僕はまったく逆だと思う。石を積み上げることを虚しいと思う人間は、決して石を積み上げないだろう。石を積み上げることもなく、野垂れ死んでいくだけだ。風や雨のような外力に壊されることに対抗して、積み上げていく営為そのものが、「生きる」ということであって、虚しさを感じながらも、積み上げなければならない、積み上げてみよう、と思うことこそが、唯一の生きる衝動、モチベーションなのだと信じる。
 岡本太郎は、エスキモーがイヌクシュクを積み上げるような、厳しい環境で外界に立ち向かっていく人間に、強い共感を覚えたのだろう。それはまさに、岡本太郎が人間社会と激しく対決していたのと同じ構図だからだ。数千年前、人間にとって自然は対決すべき存在だったけれど、現代の都市で生活する人間にとって、もう自然は対決すべき存在ではなくなってしまった。対決すべき存在を失ってしまった人間は「生きる」ことのモチベーションを感じづらい。
 岡本太郎は、対決すべき対象を見つけなければいけない、という問題提起をしたが、それをどこに求めるべきか、には答えていない。対決すべき対象が向こうから勝手にやって来た過去とは違い、現代は対決すべき対象は向こうからはやってこない。むしろ、どんどん遠ざかってゆく。そうすると、対決すべき対象が自分自身という、すごくレベルの高いことを、皆が求められてしまう。こういうのを「生きづらい世の中」というのかもしれないけれど、どうなんだろう、祖先の方々が発明した「祭り」や「イニシエーション」が、再びかたちを変えて成立するのであれば、僕はそのあり方を見てみたい、と思う。