どうやって今の我々があるのか?を忘れないために。

 リョサの「緑の家」を読み終わる。「密林の語り部」が先で良かった。彼がどこを目指して物語を紡いでいるのかがわからないと、何のための物語か、きっとわからなくなってしまう。

緑の家(上) (岩波文庫)

緑の家(上) (岩波文庫)

 絡み合う複数のストーリーと時系列。「難解」というよりも、異なる登場人物による異なる場面をフラッシュバック的に見せられるために、物語が追いにくくなっている。ここでも「密林」「南米文学」というマジックワードが有効で、「わかりにくさ」はそのまま密林的(=現代の西洋社会が指向してきた一軸的な考え方に束縛されない)と理解される。
 こうしたフラッシュバックのなかで立ち現れるのは、現代化した南米の都市(タクシーも走っている)や、教会が「未開」の部族から子どもをさらってきて教化する現実。急速に現代化/西洋化/キリスト教化が進む南米。
 「密林の語り部」でもそうだったけど、リョサは「南米の現実」を淡々と描くんだよね。マルケスの描く密林は「超常現象すら起き得る場所」だったけど、リョサの描く密林は、かつては超常現象すら起きる場所だったが、そうした余地が物質的・思想的な教化によって失われ、都市と同化していく、まさにその過程。
 だけど、どうやらこれは、よくありがちな近代化批判ではない、ようなのだ。むしろ、なんとかして失われつつある「神話」を再構築しようとしている、のではないか。
ふつうの物語は時系列で進む。つまり、こんなように。

ある日ピウラ村にアンセルモさんがやってきて売春宿「緑の家」を建てました。「緑の家」は村人の熱狂を集めますが、神父さんに批判され、最終的には焼かれてしまいます。

が、神話は違う。伝説的な存在が先にあり、その存在がどのようにして成立したかを物語る。つまり、

かつてピウラ村には人々の熱狂を集めた売春宿「緑の家」がありました。それはそれは人々の熱狂を集めました。「緑の家」はもともと、アンセルモさんに建てられたのでした。アンセルモさんは…

 こうした構造がいたるところに潜んでいる。そして、この構造を取るところはいずれも、外来のもの(西洋的なもの、キリスト教的なもの)を密林がどのように受け入れ、同化していったか、という物語である。あるときは拒絶し、あるときは受容し、またあるときは留保する。そうして最終的に、現代の南米社会に接続するようになっている。
 リョサが危惧しているのは、近代化そのものなどではなく、近代化を南米がどう受け入れてきたのか、どうやって今の我々があるのか、という物語を忘却してしまうのではないか、というところにある。
 それを忘れてしまうのであれば、もうそれは西洋人のまがいものになってしまう。我々がどこへ往くのかは知らなくとも、どこから来たのかは知っていなければならない。神話がそれを為していたように、物語がその共同幻想を支えるべきだ。そう考えているのだろう。

密林の語り部 (岩波文庫)

密林の語り部 (岩波文庫)

対称性の復活

ついにカイエ・ソバージュ最終巻まで辿り着いた。1〜4巻まで読んできた身としては、こんなにわかりやすいものはない、という感じですらすら読める。

対称性人類学 カイエ・ソバージュ 5 (講談社選書メチエ)

対称性人類学 カイエ・ソバージュ 5 (講談社選書メチエ)

 仕事でビジネスの言葉にどっぷりつかっている身としては、けっこう身が引き裂かれるような思いがする。中沢さんの言う「Aは非Aではない」「人間は動物にはならない」の極北みたいな状況で仕事をしている。言葉には明確な定義を持たせて、そこからぶれてはいけないし、数字の合計が違っていたら、大変問題になりる。そういう仕事です。それで、帰ってきて「対称性人類学」読むと、「ああ」って思うよね、やっぱり。そういう麻薬的な、自分を慰めるような読み方は良い読書でないとは思うけれど、むしろ自身こそが二項対立的な生き方をしているのだ、と思うと、それはそれで面白いな、と。
 結局、対称性のある思考の働いていた現生人類も、基本的には「人間は人間で、動物は動物」と考えていたはずだ。ただ、特定のタイミング、例えば祭りや儀式のタイミングで「人間は動物になるし、動物は人間になる」と考えたということだ。だから、その思考のスイッチングができるということで、各種儀式はそのスイッチであったということ。
 だから、例えばビジネスが二項対立のうち「Aは非Aでない」の思考で動いているのはアタリマエで、しかし社会のなかで「Aは非Aでもある」へのスイッチとなるイベントが失われてしまったことが問題となる。この手の話でいつも思い出すのは、岡本太郎が上級生からイジメられていたときの話。上級生は彼を見ると、狐の仮面をかぶり追いかけてくるらしい。あの岡本太郎でも当時は怖く感じたらしいが、後に思い返してみると、あれは通過儀礼であり、しかもそうした儀礼を自分のほうから引き寄せていたのだ、と語っていた。まあ、正直、メンタル強いっすね、としか思わないが、例えば岡本太郎の経験は確かに「イベント」足りえると思う。「仮面」というものは文化人類学において、まさに「Aは非Aになる」を体現しているものなので。
 カイエ・ソバージュを通して、1つだけわからなかったことは、失われてしまった思考様式「神話」が現代においてなぜ重要なのか?というポイントだ。中沢さんのいう「神話」とは、世界の成り立ちを解説したりするストーリーという意味ではなく、対立する項目を、つなげて、ひっくり返す思考方法論のこと。一貫した主張は「神話を現代に取り戻さなければならない」。

しかし人間が非対称の非を悟り、人間と動物との間に対称性を回復していく努力を行うときにだけ、世界にはふたたび交通と流動が取り戻されるだろう。このように語る知性ははたして無力なのだろうか。それとも、それを現代に鍛え上げていくことの中から、世界を覆う圧倒的な非対称を内側から解体していく知恵が生まれるのだろうか。

というのは「緑の資本論」からの抜粋なんだけれども、これ、すごい「共感」はできるんだよ。でも、「非対称」に覆われた世界で生きる人間としては、「非対称」のロジックで「対称性」が有効なことを語らないといけないと思っている。「未開」の時代に、長老が神話を語る時代ではない。現代でそれをやろうとすると、物語のクリエータになるか、宗教家になるしかなくて、それって、プラクティカルなのか?と思う。
 おそらく、中沢さんのイメージしているのは、多くの人が「対称性」を感覚レベルで「大事だね」というミームが少しずつ広がっていけばいいんじゃないか、と思っているのだろうけど、そういう意識って、コントロールできるものじゃない、と思っているので。むしろ、「対称性」の思考様式を現代に取り戻すことで、どういう社会が実現可能なのか?ということを真摯に(=ロジックと実例を持って、「非対称」な言葉で)示すことだと思う。

カイエ・ソバージュ読後記録
カイエ・ソバージュ(1/5):秩序ををひっくり返す装置として
カイエ・ソバージュ(2/5):伴読部第3回『熊から王へ』
カイエ・ソバージュ(3/5):『愛と経済のロゴス』はだいたい贈与論
カイエ・ソバージュ(4/5):スピリットから神が生まれる?
カイエ・ソバージュ(5/5):対称性の復活
どの巻を読むべきか、というと、1巻目で「神話」の定義がなされるので、それを踏まえて2巻目の知的大風呂敷を感じていただければOK。以降の巻は、この手のノリに興味があれば、という感じだろうか。批判的な感想を書いてきたけど、現生人類のなかに存在した「神話」を巡る旅、としてはめちゃくちゃ面白かった。やっぱり中沢さんのナラティブな「語り」(意味が重複している?)は、ちょっと他に類を見ない。こういう「語り部」がいなければ、文化人類学の入り口は狭く閉ざされたものになってしまうだろうし、自分にとっても「かたい本」を読むときに興味を持続できないかもしれない。全書を通して、貴重な読書体験だった。

緑の資本論 (ちくま学芸文庫)

緑の資本論 (ちくま学芸文庫)

密林の語り部 (岩波文庫)

密林の語り部 (岩波文庫)

コミュニティの再構築、という一番大切なところを物語る

 久しぶりの池澤夏樹東日本大震災後に書かれた一冊で、明確に震災のこと、震災に大きく人生を狂わされた人々、その後の人々のこと、が描かれている。ファンタジー調ではあるものの、書いてあることは大変現実的なことだ。

双頭の船

双頭の船

「双頭」の意味するところ

 特に、震災にあった人々が「それからどうするか?」というところをしっかり書いていると思う。土を求める人々、新たな航路を求める人々。いずれも肯定的に、いずれも懐疑的に書いているところは、真摯な態度と言える。
 一番つらいのは、両者の分断だと思う。ある土地に留まる決意をした人々は、土地を離れる人々に「裏切られた」と感じることがあるかもしれない。新しい潮流を生み出そうとする人々、震災によって自分の為すべきことを見出した人々は、「あえて土地にしがみつく理由がわからない」と言うかもしれない。
 だが、それはどちらも正しいし、どちらも正しくないかもしれない。望まれるのは、どちらの決断も尊重しあうべきだ、ということ。大切なのは、正しいことではなくて、正しいことなんか何ひとつわからない中で出した結論に対し、ちゃんと受け入れることだけ。
 そこで別の選択をした人たちを「もう仲間ではない」と思ってしまうことほど、悲しいことってあるだろうか。別の道を選ぶことは、絆を失うことではないし、どちらの決断も尊重されるべきだ。そういうメッセージが「双頭」という二文字に込められている。

「船」の意味するところ

……で、ね。リアリストとしては、問題は「船」のほうだと思っている。船長が言うように、

小さなフェリーのしまなみ8から始めて、必要に応じてこのサイズまで育った。だから第一小ざくら丸も外洋に出たらすぐに充分な大きさに育つ。船にはそういう力がある。

というのは事実だ。数人の有志から始まり、ボランティア団体となり、よくわからない人々を巻き込みながら、「さくら丸」は最終的に被災者を数百人単位で吸収し、増築を繰返して、巨大な船になる。ここで言う「船」は人々の集団、例えばNPO団体や地方自治体に相当するだろう。
 NPOピースボートなんかは名前もまさにで、そういう活動を担っているのかなと思っていて、参加している友人の話を聞くと、確かに都市生活に矛盾を感じている系の人々が集まっていて、新しいコミュニティを形成しているように思われる。
 ただ一方で、そうした「船」のハンドリングはかなり難しい、というのが外から見た時の感想である。船が健全に成長して、健全に分化し、健全に航海するには、優れた船長が必要だし、多くの幸運が求められる。
 物語の中とは言え、健全な船の条件は、本作のなかでいくつか示されていると思う。ひとつは、部外者に対してオープンであること。そして、変化を受け入れる柔軟性があること。
 震災を描いた多くの物語が、その悲惨さやそれ以前の問題を浮かび上がらせがちなのに対して、本作が提示しているのは、震災の後、どうやって立ち直っていくか、もとのかたちに復旧するのではなく、被災した人たちと、そうでない人たちが、新しいコミュニティの成立も含めて、どうやって安定と安心を再構築するのか、という、一番大切なところを扱っていて、すごく真摯な物語と思う。

ムカシ×ムカシ

裏表紙を読んで、京極かよ!と思ったのは内緒。

 ついにXシリーズもノベルスで読むようになってしまったことよ。本作は、森博嗣にしては珍しく、動機に踏み込んでいるな、と思った。自分の存在価値を失わないための殺人。最も人間的な動機。すごく、ウェットにつくられていると思う。
 ウエットなのはもちろん、小川さんのせい。Xシリーズを通して、物語をモチベートしているのは、小川が失ったものを切望している、というところで、これはもちろん、S&Mシリーズの西之園萌絵と基本的には一緒。ただ、萌絵がいくらか破滅的だったのに対して、小川さんはちゃんと、いろいろ線引している人だし、天才よりとして描かれていないので、基本的には安心して見ていられる。だけど、フラジャイルな特異点みたいなところがあって、今回みたいに、孤独というか、そういうところに触れると、急に一葉のアパートを訪ねてしまったり、破滅的なほうにスイッチが入ってしまう。で、この辺は森博嗣の書き方が圧倒的なところで、特異点から加速度的に展開が転がってくところは流石としかいいようがない。
 S&Mを読み返すと、萌絵はどうしても特殊な人間と見えるはず。その点、小川さんの、基本的には大変スマートだけど、内面はフラジャイルっていうのは、たぶん、特に女性はすごく感情移入しやすいことと思う。女の子って、そういうところ、ありますよね、と。今回の、永田が泣き出しちゃうとことか、もう、よく書けるなって。たぶん、男子の50%くらいは、意味がわかんないと思う。ああいう状況で、感情の水かさが上がっていって、最終的に溢れてしまうような感覚って、なんで男性にはメジャじゃないんだろう?後天的なものなんだろうか?
 話を戻すと、Gシリーズが四季を目指して収束していくのと違って、Xシリーズは、小川がどう救われていくのか、というところに終着点があるんじゃないかなーと思っていて、萌絵のケースよりは、当然、もう少し現実的な、あまり突飛ではない結論に落ち着く、と勝手に思っている。天才でなくとも到達し得る解を提示するんではないのかな、と。
 森博嗣インタビューによると、次作は「サイタ×サイタ」。これは猟奇ホラー・サスペンスな感じがしますね(てきとう)。最終作は「ダマシ×ダマシ」。こっちは、なんかわかる。小川のスタンスは、これだもんね。まあ、だましだまし生きていくしかないんじゃないですか?みたいな。

ゴジラを倒したのは、オキシジェン・デストロイヤーではない

ゴジラ」を映画館で見てきた。ハリウッド版ではなく、1954年公開の初代版。

 昔から予習は欠かさない人間でして。ハリウッド版が始まる前に、60週年を記念して、映画館でやってるんですよ。映画としては、完成されている!と思った。100分ほどの映画なんだけど、隙がまったくない。開幕早々に船が沈む。そこから5分やそこらで民話のなかの「ゴジラ」の存在が示唆される。そして、古生物学者による、古代生物「ゴジラ」の可能性。ファースト・コンタクト。東京上陸へ、と。
 東京に上陸したとき、あ、ホンモノだ、と思った。やっぱり、マグロ喰ってるようなやつとは違いますね。平成ゴジラ世代なので、1984年のゴジラから、VSデストロイアまでは見ているけれど、そうした平成ゴジラと比較して、決して安っぽく見えることはなくて、むしろ、「ゴジラが存在する」ということに対するリアリティは、以降の作品より全然高いのではないか。そう思った。モノクロ映画であること、ゴジラが基本夜間に現れるようにした演出もそれを助けている。放射能火炎(でいいのかな?)で鉄塔が溶けるシーンもすごかった。壊れるのではなくて、ちゃんと「溶けて」いる。少し調べたところ、水飴を使っているそうだ。どうりで。

 ゴジラが実は反核反戦の映画ではない、という意見*1は、「ゴジラ」を見たことがない人の意見なので、考えるに値しない。けれども結局、日本人にとって、ゴジラとはなんなのか?というと、戦争、兵器、核への恐怖の象徴です。というところで留まるには少し惜しい。
 僕は、アンコントローラブルな(=コントロールできない)ものの象徴、と考える。だから、ゴジラは「暴走する兵器と戦争の化身」ということもできるし、「自然災害」という捉え方もできる。暴風雨とともにやってくる描写は、台風や土砂崩れが集落を破壊しているのと、描写としてはそんなに変わらない。劇中では、明らかに自然災害とは違う、と言っているけど、それは劇中での話である。東京の人間は「空襲」を思い浮かべるだろうけど、それ以外の地域の日本人は台風を想起したかもしれない。ともかく、近代兵器が通用しない、鉄コン造のビルディングも容易く破壊される、かつ出現タイミングは読めない。そうした特徴は、人間にはコントロール不可能な対象であることを意味する。
 さらに踏み込めば、アンコントローラブルというのは、原水爆のような、落としてはいけないレベルの兵器を持つこと=兵器としてコントロールが効かなくなる、ということであって、それは劇中で芹沢博士が葛藤していたことでもある。
 ネタバレだけど、芹沢博士は、オキシジェン・デストロイヤーという、ゴジラを倒せるクラスの兵器をつくりだしてしまう。ただ彼は、そういう兵器をつくれば、世界の為政者たちが自身のパワーゲームに利用するはずだと考える。だから、社会の役に立つレベルまで研究を発展させることができれば研究を公開するけど、そうでなければ研究を闇に葬る覚悟がある、と。
 水爆でも倒せなかったゴジラを新しい兵器で葬っても、それは、なにも解決したことになっていない。それは、水爆より強い兵器(もちろん、アンコントローラブルな)が存在するということになって、状況としては、水爆が存在する世界と等価だから。
 ゴジラを倒したのは、オキシジェン・デストロイヤーではなく、オキシジェン・デストロイヤーを闇に葬った芹沢博士。さらに言えば、その芹沢博士の持っていた、平和への信念と理性的な決断、ということになる。だって、それがなければ、つまり芹澤博士が生き延びれば、仮に自分の意思と違っても、オキシジェン・デストロイヤーは世界に拡散し、ゴジラなど比ではない殺戮をしていたのだろうから*2
 つまり、「ゴジラ」は、アンコントローラブルなものを、理性の力で止めましょう、という至極まっとうなことを言っている。
 そう考えると、この時代の日本人が、アンコントローラブルなものと、どう付き合おうとしているか?ということもよくわかる。芹沢博士はオキシジェン・デストロイヤーを闇に葬った。使わないことにしよう、と決めた。これ、絶対アメリカだったら、こうはならない。ちゃんとコントローラブルな状態を保とう、という結論になるはず。バットマンが悪を根絶したとしても、バットモービルをごっそり廃棄処分したりしない。
 なんか、その辺、日本的な割り切りというか、ここから先はコントロールできません、見ないようにします、っていう態度は、良いのか悪いのかなんともだけど、西欧的には「えぇ?」っていう感じなんじゃないだろうか?もちろん、ここから、「自然災害の頻度の高い日本はそうした国民性が発達したのでしょう」論に進んでもいいけど、この手の話はもうこれ以上発展性がないな…
 なので、この記事のハイライトとしては、ゴジラを倒したのはオキシジェン・デストロイヤーではなくて、「オキシジェン・デストロイヤーを封印する」と決めた芹沢博士の理性的な決断です、というところで。7月末公開のハリウッド版が待ち遠しい。

S.H.モンスターアーツ ゴジラ (2014)

S.H.モンスターアーツ ゴジラ (2014)

*1:寝言、くらいか?

*2:そういう意味で、平成シリーズのVSデストロイアは、とても示唆的。

オークランド行ってきた

ニュージーランドオークランドへ。ゴールデンウィークを微妙に外すと、シーズンオフなので結構お買い得。写真があったほうがブログとしても絵になるな、と思ったけど、写真を撮るために旅行しているわけではないし。

海外初運転!

 初日は、ピハ・ビーチ。オークランドの北にあるワイタケレの山を越えると、西海岸に出る。曲がりくねった道を、車でおっかなびっくり走って1時間、山が開け、霧がかった入り江が見える。てきとーな公園に車を停めると、河口を挟んで、見上げるように100mクラスの大岩。これは、良い。どうやら、ライオンロックと呼ばれる、原住民にとって象徴的な岩だったようだ。しかも、登れる。眺めて良し、登って良し。日本で言うと、と考えて思いつかない場所は、まず来てよかったと思える場所だ。
 海外で車を運転したのは初めてだったけど、左側通行だったし、左側通行だったし、特に問題なし。とりあえず、HERZレンタカーにしておけば安心、というところか。混雑したラウンドアバウトのは、どうも大縄跳びでいつ入ればわからない子のようになってしまい焦るけれども、まあ、皆さん優しいので大丈夫。

レモン・アンド・パエロア

 コカ・コーラ社がNZのみで発売しているL&P。空港を降りて真っ先に買ったのがL&Pで、$5紙幣を差し出すと、おつりは50セント硬貨。ふーん、と思ったが、よく考えるとおかしい。ニュージーランドドルは$1=85円程度だから、$4.5≒380円。500mlのペットボトルが380円もするのか!一瞬、ぼったくられたかと思ったけど、500mlペットボトルが$3.5≒300円以上するのはだいたい相場通りのようだ。つまり、そもそも、物価が高い。消費税15%は伊達じゃない。
 でもやっぱり、都市部も郊外もアジアのようにモノやヒトで溢れかえっておらず、成熟した豊かを感じさせる。オーストラリアと同じように、街そのものが公園のようにきれいで、お金で治安とキレイを購入しているということだろう。

神木カウリと貴族的な博物館

 ワイポウア自然保護区へカウリの巨木を見に行く。オークランドから車で数時間かけ、なんとか辿り着く。
 今まで見たことのない森林の様相で、けっこう明るい。マオリの神木と言われるものは50mくらいの高さがあって、幹の円周も13mほど。大きく成長できるのは、樹皮や枝を自ら落とす性質があるからで、これが着生植物の付着を防いでいる。森林が明るいのもこのためかも?落ちた樹皮には樹脂が付いていることがあって、これがカウリ・ガム、つまり琥珀になる。
 保護財団のカウリ博物館に閉館ギリギリに滑りこむと、「もう閉館だから早く見ておいで、入館料タダでいいから」と言われる。なんだこの国。いらないのか?$20?係員さんの激推しは地下のカウリ・ガム・ルーム。当時の入植者貴族が所有していた琥珀のコレクション。両手で抱え込むくらいの破格のサイズのものから、貝のかたちに精緻に加工されたものまで。10分位しかみていないけど、あれって、かなり凄いコレクションなんじゃ……
 木彫のキウイがあったので、お手頃なサイズのものを購入。カウリの木でできているかを聞くと、どうやらスワンプ・カウリというもので、古代の倒木を利用しているらしい。大気に触れない状態の倒木は良い状態で保存されるが、一度大気に触れると、腐食がはじまってしまう。その腐食が始まる前に加工したものが、こうして製品になるのだという。

再興された鳥のサンクチュアリ

 天気予報が毎日、晴れ時々曇り時々雨、なので毎日、空とにらめっこして出かける。ティリティリマタンギ島は、野鳥のサンクチュアリ。$5でボランティアのガイドさんに案内してもらえるのも良い。いかにも鳥好きなおじいさん、といったふうで、熱心に解説を始める。もとから鳥の楽園とばかり思っていたけど、1980年代までは農場・牧場開発が進み、ほとんど自然は失われていたらしい。
 そこから、自然修復を始めて、鳥が戻ってきたのだという。やっぱりオーストラリア・ニュージーランドは環境先進国だな、と思う。日本だと、小笠原の兄島でヤギの根絶に成功したのが3年くらい前。自然をうまくコントロールする、ということで言うと、積み重ねてきた時間が違う。
 郊外に出ると広大な牧草地が広がっていて、これだけの環境改変を18世紀からわずか200年やそこらでやってきたわけで、「環境をコントロールする」ということに対して敏感、あるいは馴染みがある、決して遠い昔の記憶ではなく曾祖父さんくらいの話、ということだろう。日本人が氾濫原を水田に変えてきたのはもっと昔からのことで、時間的な断絶は大きい。水田を宅地に変えるのとは、規模がぜんぜん違う。それを、みんな肌感覚のある歴史として持っている、というところではないか。
 NZは飛べない鳥が一番多い国だそうだ。大型肉食獣がいないことが理由と考えられている。体長3mはあったというモアが絶滅してしまった今でも、キーウィ、プケコ、タカへ、ニュージーランドクイナ、リトルブルーペンギンなどなど、色々見れる。ティリティリマタンギ島でも、この辺の種は一通り見れる。

 プケコとタカへは、どちらも群青色の胴体に紅色の嘴が美しい鳥。太っちょで大きいほうがタカへ。タカヘは動物食なのに対して、プケコは植物食。食生活のスタイルが形態に違いをもたらしているのだろう。
 ツアーに参加しているおばあさんは、ガイドの説明よりも、鳥のほうが気になるようだ。それはそうだ。ほとんど鳥を見に来ているのだから。
 ツアーのなか、ガイドのおじいさんが何度も言及する鳥がいて、これはおそらくNZでも希少な鳥だろう。スティッチバード。オリーブ色のスズメのような鳥。一属一種の近縁種がいない鳥で、進化の過程はわりと謎。だいたい、生き物マニアは普通種はスルーし、希少種に注目するものだ。旅行者にとっては、すべてが珍しいから、派手な種、特徴的な種に目がいくもの。逆に、このギャップを見れば、話している内容からその土地の希少種がわかる、とも言える。
 島内には、いくつかジュースを入れた箱があって、そこにベルバード(ミツスイ。小笠原で見たメグロに近い?)と一緒にスティッチバードも集まっていた。野生環境下にこんなものを置いていいのだろうか?少し調べると、ハニーイーター(蜜を吸う鳥)はいくつかいて、大型のトゥイやベルバード、そしてスティッチバードなどがこれに当たる。そのため、種間競争、つまり蜜の奪い合いにどうしてもなってしまう。スティッチバードは最も小型なので、例えばトゥイの好む林冠木の大きめの花を利用しない。そうなると、充分な環境の整わない島内では、補助的に、トゥイの訪れないようなジュース箱を設けてあげる必要がある、ということになるだろう。小さな花の代わりに、ジュース箱。
 ティリティリマタンギに一泊すれば、夕方に巣に戻るリトルブルーペンギンや、夜行性のキーウィが見れる可能性があるが、今回はパス。結局、キーウィはオークランド動物園で見た。かなり臆病な鳥と見え、真っ暗の室内でも、にぎやかな子どもたちの前には一向に姿を現さない。待つこと20分ほど、二匹のキーウィが姿を現す。想像よりも大きい。大きさはニワトリと同じくらいだが、頭と胴体がほぼ同一なので、大きく見える。嘴は体の1/3ほどあって、これまでまったく見たことのないタイプの生き物だ。野生で見ることができたら、さぞ楽しいことだろう。
 ニュージーランド人はこのキーウィが大好きで、店のロゴマーク等にキーウィが使われていることも多い。郊外には「犬が我々のキーウィを殺す」「どんな犬でもキーウィを殺すことができる」とか、犬や猫、ネズミがキーウィに与える影響を警告する看板も見られる。キーウィというか、鳥全般が好きなのかも。プケコ・ベーカリーとかあったしなあ。
まあ、そんな感じで、のんびり、遅めのゴールデン・ウィークでした。

「笹まくら」を戦争ものだ、というだけで評価したくない

笹まくら。笹を枕にしたときのように、かさかさと不安な旅。

笹まくら (新潮文庫)

笹まくら (新潮文庫)

時代の空気を読む

 この時代、70年代くらいの小説は、いつも不思議な感じがする。「風の歌を聴け」とか「箱男」とか。自分が生まれる前のことだから、その時代の空気を体感したことは一度もなくて、だけど、ちょうど親の世代はそうした空気を吸って生きてきたようなので、実家の本棚にはその時代の本が多い。戦前や50〜60年代くらいの雰囲気は、もう完全に断絶があって「教科書で見た」レベルだけど、70年代の空気は、想像力による補完で、どこか届きそうに思える距離感である。
 だから、この時代の物語に「戦争」のキーワードが入ってくると、ちょっと背筋がぴくっとなる、というか、時代の連続性を感じて、「やっぱりつながっているんだ」というふうに思う。
 笹まくら。笹を枕にしたときのように、かさかさと不安な旅。徴兵忌避の過去。平和な時代が訪れてなお、過去に苛まれ続ける男の物語。そうした過去を持つ人間が存在し得る時代だった。だけど一方で、「不毛地帯」の主人公がソ連の抑留から戻ってきて、商社に入って戦闘機の売り込み合戦していたのと同じ頃なわけで。個人の考え方にどう「戦争」が結びついているか、というのが一概には語りつくせないのだなあ、と。

「苛まれる」という人間の本性を描いた小説として読みたい

 ただ、戦争のある側面をうまく切りだした小説だ、という評価は、本作を不当に落としめている、んじゃないかなあ。
 中学校のころの国語の授業を思い出す。いわゆる文豪の作品が選ばれて、いくつかのパートに分けられる。それを4〜6人くらいのグループの持ち回りで「読解」していく。「この行動をとった理由はなにか?」とか「この描写はなにを意味しているか?」とか、自分達で問いを立てて、自分達で回答していく。出来レースである。
 そのとき流行していたのが、とにかく戦争の匂いを嗅ぎ取ったら勝ち!みたいなやり方だった。先生がそういうものを評価したからなのかどうかはわからないけど、登場人物の描写、風景の描写、そういったものを取り上げて、「これは戦争を暗示しています」みたいに解説するのが「流行っていた」。
 当時から僕はしょーもないな、これは。と思っていたのだけど、どうも文学の世界というのだろうか?文芸の業界というのだろうか?そういうところでも、「戦争の匂いを嗅ぎ取ったら勝ち!」的な評価があるような気がしている。もちろん、どこに?と言われても即答できるほど詳しくないけれど、「戦争のことを忘れるな」というメッセージを込めるだけで評価されるのって、違うだろう?と思うのである。物語は、もっと普遍的で奥深いテーマを、立体的に語り出せるはずだ。
 そういう意味で、僕はこの物語を、「苛まれる」という感情と経験をすばらしく表現した小説、として評価したい。一時代を表現しただけの物語ではなくて、もっと人間の本性に根差した物語であると思っている。まさにタイトル「笹まくら」であって、考える必要のないことを考えてしまったり、トラウマのようにいつでもその物事を強迫的に思い出してしまったり、そういうことは誰しもあるはずで、それが物語全体の骨格となっている。
 「自分は逃げたのだ」という意識に苛まれ続ける、という体験は、意外にも現実ではできない。精神的な健康さを保つには、その意識をどこかでストップさせないと身がもたないわけで、この感情に浸るのは、なかなかできる体験ではない。自分を究極的に苛め続けられる。そう、「笹まくら」ならね。もちろん、普遍的であればあるほど価値が高い、などと言うつもりはないけれど、テーマに戦争なんぞを絡めなくても、「笹まくら」はちょっと他ではできない読書体験だったろうと思う。